ラグビーの日本代表監督、早大監督などを務め、昨年11月に86歳で死去した日比野弘さんをしのぶ「囲む会」が5月3日、東京・日本青年館で開かれた。
故人の人柄を表すように、発起人の森喜朗元首相、日本協会・森重隆会長をはじめ、日本ラグビーや早大関係者ら約500人もの参列者で、会場はにぎやかになった。
日比野さんとは、筆者が中学生のころから交流がある。当時、秩父宮ラグビー場の近くに実家があり、ラグビー好きの父親が日比野さんに声をかけ、家まで連れてきたのが始まり。筆者が大学1年のときには日比野さんのラグビーの授業を履修した。土曜の1限、当時グラウンドがあった保谷市(現西東京市)東伏見まで、通ったものだ。
日比野さんの体育の授業は2コマあり、毎年冬に授業選抜チームをつくって大学の教職員チームと対戦するのが恒例だった。筆者もお眼鏡にかなって選抜チーム入り。30分×3本の試合にSO、CTBとしてフル出場し、終了直前に逆転トライを決めたのだが、その後のロスタイムに再逆転トライを奪われて惜敗したのも、もう40年以上前のいい思い出だ。
スポーツ記者の仕事についてからも取材者、被取材者という関係だけでなく、プライベートでもいろいろ交流させていただいた。
仕事の思い出としては日比野さんが監督だった1985年の早慶戦前、SOとFBを攻撃と守備で入れ替えるという、当時としては珍しい戦術をとることに気づき、週半ばに記事にした。次の日の日比野さんは「書かないでよ~」と、しぶい顔をしていたことを思い出す。
1980年代後半は大東大が躍進し、取材機会も多くなった。埼玉・東松山市で練習を取材し、カメラマンと一緒に会社に戻って原稿を手書きする時代。ファクスも使っていたが、街中で気軽に使える状況ではなかった。ある日、取材が遅くなり、関越自動車道をぶっ飛ばしても、会社に戻っていては間に合いそうにない。当時はまだ首都高速とつながっておらず、練馬出口で下りて目白通りを走って戻る。ふと、「日比野さんの家が近い」と思い当たり、自宅のそばで降ろしてもらい、午後7時前後の食事時にずうずうしくも家にお邪魔した。「どうしたの」とご本人も驚いていたが、「テーブルもファクスも自由に使って」と快諾してくださった。
ついでに、奥さん手作りの食事までいただいた。その席で、「浩くん、彼女はいるの?」と聞かれ、いない旨を伝えると、いたずらっぽい表情で「そうかそうか」とうなずいていた。
のちに、日比野さんの大泉高時代の同僚の娘で妻となる女性を紹介してもらい、媒酌の労もとっていただいた。文字通りの「月下氷人」。あのときお邪魔していなければこうなっていなかったかもと、感慨深い。(田中浩)