世界王者となった具志堅用高をたたえる熱狂が続いていた。
試合会場でもパーティーでも独特の指笛が鳴り響き、「チバリョー(頑張れ)」の声がかかる。沖縄出身者の歓喜ぶりを、用高は肌で感じていた。
沖縄出身者が多いことで知られる大阪市大正区での祝勝会にも招かれた。「パーティーの会場に行くと皆、三線(さんしん)を持って歌い、踊っているんだ。本当に、ここは沖縄かと思ったよ」
会場では主催者から、同姓の青年を「体操の具志堅くん」と紹介された。1984年、ロサンゼルス五輪の体操競技で個人総合とつり輪の金メダルを獲得する具志堅幸司である。当時は20歳の日本体育大学2年生で、大阪に帰省中だった。
81年にモスクワで開催された世界選手権の平行棒で幸司が優勝したシーンを、用高はテレビで観戦した。
「あの時の青年だと、すぐに分かったさ。それに中継のアナウンサーが『具志堅用高選手』って言い間違えたんだ。びっくりしたよ」
■ ■
具志堅幸司は昭和31年11月12日の生まれだから、用高の1学年下になる。
生まれも育ちも大阪市大正区だが、父親は沖縄本島北部、NHK朝の連続テレビ小説「ちむどんどん」の舞台である山原(やんばる)の出身。母親は石川(現うるま市)の出身だった。
幼いころ、母に抱かれた帰省の際にはパスポートが必要だった。沖縄の復帰前には返還を求めるデモに親と加わった。43年の「興南旋風」では地元が仕立てたバスに乗って甲子園球場に向かった。高校野球で沖縄代表と大阪代表が対戦すれば、迷わず沖縄代表を応援するというから、立派なウチナンチュ(沖縄人)である。
用高の祝勝パーティーのことは、よく覚えている。
「握手をしてもらいました。とても柔らかかったです。私の手のひらは鉄棒や平行棒でゴツゴツなんですが、世界チャンピオンの手はこんなに柔らかいのかと驚きました。それが一番の印象です」
対戦相手のあごを砕く強くて硬い拳(こぶし)と、後輩の手を優しく包む柔らかい掌(てのひら)。世界王者の逸話として、なんとも象徴的だ。
用高がグスマンを倒したタイトル戦は、遠征先の水戸のサウナでテレビ観戦した。沖縄の世界王者が、同じ具志堅姓の世界一が、本当にうれしかった。
世界選手権で「具志堅用高」と名前を間違えられたことは、後で知った。
「自分がまだ無名だからだ。もっと有名にならなければ、と思いましたよ」
オリンピックの金メダリストとなってからは、もう誰にも間違えられなくなった。その代わり、用高との血縁関係を聞かれることが多くなった。
用高からは「親戚って言っておけばいいさ」とアドバイスをもらった。
用高の家系は「用」の字を名につける「用関係」。幸司の家系は「幸」の字の「幸関係」という別系統になるが、何代も遡(さかのぼ)れば、どこかで重なるはずなのだという。
拓殖大学に進んで五輪を目指すはずが、協栄ジムの横取りで無断のプロ入り。沖縄の期待を一度は裏切った「具志堅の金メダル」は、同姓の幸司の手で果たされたことになる。
■ ■
ゴルフの松山英樹はかつてこう話したことがある。
「日本人がメジャー大会で勝てないのは体格のせいや、いろんなせいにするかもしれないけど、日本人だから勝てないとかは思い込みなんじゃないか」
松山は昨年、メジャー大会のマスターズを制して自らの言葉を証明した。
復帰前に上原康恒がアマの日本一となり、復帰後に具志堅用高がプロで世界一となった功績は「沖縄は本土に、世界に勝てないんじゃないか」という思い込みの殻を破ったことにある。
その効用は、ボクシングやスポーツという限られた範囲には収まらなかったはずだ。(別府育郎)