昭和51年10月10日、沖縄から初の世界王者は縁もゆかりもない山梨県甲府市で誕生した。最軽量の戦いとは思えぬ壮絶な打ち合いに興奮冷めやらぬ中で、新王者は、こう口にした。
「ワンヤカンムリワシニナイン」。八重山言葉で語られた具志堅用高の思いを、その場で理解した人がどれだけいたか。
「俺はカンムリワシになる」と彼はそう言った。カンムリワシは八重山諸島に生息する美しい猛禽(もうきん)類で後頭部の白い羽毛が冠にみえる。八重山民謡「鷲ぬ鳥節」は元日の朝日に飛ぶ若い冠鷲を歌う。勝者の弁は自身の壮大な前途を宣言したものだ。島口(しまぐち)で話すチャンピオンに、沖縄出身の人々は熱狂した。
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「世界チャンピオンってすごいね。人生が一夜でガラッと変わったから。試合の翌日、東京に戻ってきたら、もう大騒ぎだった。(バイト先の)とんかつ店では近くの法政大や日本歯科大の先生や学生が集まっていて祝福してくれて、1週間は大変だった」。店にもジムにも、電話や直接祝福にやってくる人が途切れない。その多くは沖縄出身の人たちだった。
「沖縄の人は名字では呼ばない。同じ名字も多いからね。皆が『用高、ありがとう』っていうんだ。おめでとうではなく、ありがとう。東京にはこんなに沖縄出身の人が多かったのかって驚いたぐらいさ」
会社や学校で「沖縄の人はすごいね」と話しかけられ、初めて周囲と親しく話せたのだと、同じような感謝の言葉をたくさん聞いた。具志堅は「ボクシングをやっていて、本当によかった」と、心の底から思えた。
東京でも沖縄に対する偏見は色濃く残っていた。だが世界王者が堂々と島の言葉を話している。それを本土の人々が称賛している。本土と沖縄の間に引かれた線を消すのに、具志堅の拳(こぶし)が大役を担ったのだった。
いとこの具志堅用治は飯田橋の町を一緒に歩いた。アフロヘアとひげの用高を、誰もが認めて振り返る。指をさす。
「皆に見られるから、結局どの店にも入れずに歩き続けた。兄の用祥は同じ髪形にして、随分もてたらしいよ。もう誰にも『ぐしかたさん』なんて呼ばれなくなったな」
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具志堅の快挙に、沖縄の熱狂はさらにすごかった。
10月20日、具志堅は沖縄に空路で凱旋(がいせん)した。那覇空港は出迎えの人であふれ、具志堅や協栄ジム会長の金平正紀らが到着すると歓迎式典や記者会見が行われた。そのまま一行は黒塗りのオープンカーに乗り、県庁前を経て県民で埋め尽くされた国際通りをパレードし、興奮は最高潮に達した。
もっともパレードの開始時には、ひと悶着(もんちゃく)があった。具志堅の両側は康恒、フリッパーの上原兄弟が固める予定だったが、フリッパーがオープンカーへの同乗を拒否したのだ。
「沖縄の星」といえばもともとは上原兄弟のことだった。具志堅は兄弟の実家、銭湯「若松湯」の下宿人で、フリッパーにとっては興南高ボクシング部の後輩でもあった。
加えてフリッパーは同年3月6日、デビット・コティ(ガーナ)が持つWBC世界フェザー級タイトルに敵地アクラで挑戦し、12R負傷TKOで退けられた。具志堅が世界王者となった日、山梨学院大体育館ではセミファイナルで吉田秀三(協栄河合)に敗れ、日本タイトルも失っていた。
故郷の人たちに笑顔で手を振る気持ちになれないことは、十分に理解できる。上の兄の勝栄に叱責され、金平に説得されて車には乗ったが、その表情は憮然(ぶぜん)としたままだった。
「具志堅は後輩なんだから、よくやったって言ってやればよかったんだ。フリッパーは、そういうのが苦手でね」と話す康恒も内心は面白くなかった。
「このままでは引退後も俺は『具志堅さん』と呼ばなくてはならなくなるのか。それはごめんだな」。その思いが、康恒の心に火をつける。(別府育郎)