拳闘の島 沖縄復帰50年

(13)上原兄弟 沖縄で挙げた大金星

産経ニュース
上原兄弟はそろって昭和48年度の優秀選手表彰を受けた。左からロイヤル小林、フリッパー上原、柴田国明、上原康恒、花形進
上原兄弟はそろって昭和48年度の優秀選手表彰を受けた。左からロイヤル小林、フリッパー上原、柴田国明、上原康恒、花形進

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昭和48年11月29日、那覇市の奥武山(おうのやま)体育館は約7000人の観衆で埋まり、指笛が吹かれ、「チバリョー(頑張れ)」の声援がこだました。ゴングの音も聞き取りにくいほどの盛り上がりだったという。

メインイベントは現役のWBCジュニアライト級世界王者、リカルド・アルレドンド(メキシコ)対上原康恒のノンタイトル10回戦。弟のフリッパー上原もWBCフェザー級10位の世界ランカー、メミン・ベガ(メキシコ)との10回戦を戦った。

兄弟ともに格上を相手に金星を挙げ、世界戦への道筋を拓(ひら)くビッグマッチとなった。

■   ■

アルレドンドは、沼田義明から世界王座を獲得して以降、岡部進、アポロ嘉男、柏葉守人を相手に防衛を重ねた日本人キラーとして知られていた。

だが、康恒は日本大学ボクシング部のアマチュア時代に、後楽園ホールの場内整理のアルバイトで、アルレドンドが小林弘の世界タイトル挑戦に失敗した試合をみていた。

「プロってこんなものかって感じだった。うまいとは思ったけど、怖いとは思わなかった」と、現役世界王者にも臆するところはなかった。

セミファイナルでベガに判定勝利を収めたフリッパーが笑顔で控室に戻ってきた。

「アニ、世界なんて大したことないさ」。弟の言葉に緊張も和らいだ。

アルレドンドの武器は左ジャブである。これを恐れて距離を取ると、術中にはまる。

「攻めていれば打たれない。前に出て懐に入り込めば、もう相手は打てないですよ。それを俺は徹底した」

ジャブを顔面に受けても康恒は前進を止めない。4回には右のクロス、8回には右フックが王者のアゴをとらえた。3者のジャッジはいずれも6~7ポイントの大差で打ちまくった康恒の判定勝利とした。会場の興奮は、頂点に達した。

当時沖縄では、沸騰する上原兄弟人気を当て込んだレコードが売れに売れていた。ハワイアンのダニー飯田が作曲し、レフェリーの遠山甲が作詞した「沖縄の星」である。

♪にぎり拳に夢かけて

リング一筋男が燃える

(中略)

ああ光り輝け沖縄の星

遠山は51年6月26日、アントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦でもジャッジを務める。レコードは、発売20日間で約1万枚を売ったという。

■   ■

上原兄弟の凱旋(がいせん)興行はボクシング界に、もう一つ大きな置き土産を残した。フリッパーの対戦相手、ベガのスパーリングパートナーを興南高校3年生の具志堅用高が務め、これを協栄ジム会長の金平正紀が見初めたという物語である。

フェザー級の世界ランカーのスパーリング相手を最軽量のモスキート級の高校生が務めるとは、なんとも無謀な話だが、これが金平と具志堅の初対面で、世界ランカーを恐れることなく立ち向かう姿に豊かな将来性を感じ取ったという定説だ。ただ、上原兄弟の六男、光治郎の記憶では、事実と異なる。

「金平さんは、その前から何度もウチに来て、兄貴(三男の勝栄)と話し込んでいた。具志堅さんの将来の話さ」

勝栄が指導する銭湯「若松湯」のボクシング道場は、沖縄協栄上原ジムとして始動していた。勝栄はすでに金平のビジネスパートナーであり、高校日本一となった具志堅のプロ入りを2人で画策しても、不思議はない。

連載の第10回で書いたように、具志堅は興南高監督の金城眞吉や石垣島の家族らとも相談の上、拓殖大学への進学を決めていた。ボクシング部の合宿所に荷物を送り、大学から送られてきたチケットで那覇空港から飛行機に乗った。

羽田空港の到着ロビーで待ち構えていたのは協栄ジムのマネジャー、高橋勝郎だった。(別府育郎)

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