拳闘の島 沖縄復帰50年

(12)上原兄弟 日大の怒りと「フリッパー」

産経ニュース
KO勝利を喜んでリング上で宙返りするフリッパー上原=昭和48年10月28日
KO勝利を喜んでリング上で宙返りするフリッパー上原=昭和48年10月28日

(11)にもどる

ミュンヘン五輪代表の座を逃した上原康恒のプロ転向、協栄ジムとの契約は、日本大学側を激怒させた。ボクシング部の総帥、柴田勝治の寵愛(ちょうあい)を一身に受けていたエースの裏切り行為だけに、その憤りも当然といえたろう。特に怒りが収まらなかったのは、日大と縁の深い右翼団体だった。物騒な脅し文句までが飛び交うようになり、その世界の大物に仲立ちを頼み、手打ちをすることになった。

日大側が協栄に突きつけた条件は、康恒に国内ではデビューさせない、世界王者になるまでは日大の敷居をまたがせない、日大は当面、沖縄から選手を入部させない―などだった。興南で高校日本一となった具志堅用高の争奪戦に日大が加わらなかったのも、このためらしい。

やがて弟の晴治や、上原兄弟を追って日大に進学していた仲井真重次も退学し、協栄と契約した。彼らにも、同じ条件が課せられた。

■ ■

協栄ジム会長の金平正紀は、康恒をハワイでデビューさせると発表し、晴治と仲井真は米ロサンゼルスに送られた。

協栄には先輩の西城正三がロスでの武者修行で実績を積み、WBAフェザー級世界王者として凱(がい)旋(せん)帰国させた誇れる前例があった。康恒らの海外行きはこれにならうのだと説明され、当時の新聞各紙や専門誌もそう伝えている。だが康恒らの海外デビューには、日大側との手打ちの条件という背景があった。

康恒はハワイで、スタンレー伊藤に預けられた。昭和27年5月、白井義男が日本人初の世界タイトルを奪取した際に陥落したダド・マリノのセコンドを務め、米倉健司や西城らも指導した名トレーナーだ。

「人をよく見る人でね。合う人と合わない人がいたけど、俺には親父(おやじ)みたいな存在だった。試合は新聞で報じられるから俺の顔もホノルルで知られていてね。ダウンタウンを歩いていると、いろんな職種の人から声をかけられる。面白かったよ」

対戦相手は外国選手ばかりだが、沖縄で基地の米軍兵士と戦ってきた康恒には違和感がなかった。「同じ飯を食ってる人間同士、武器を持っていなければ怖がることはない」という兄、勝栄の教えもあった。

ハワイでは4勝1敗の戦績で日本に凱旋した。4勝中3戦のTKOが相変わらずの康恒の強打を物語る。康恒以上の戦果を挙げたのが、ロスのノリ隆谷に預けられた弟の晴治だった。

4戦4勝3KOの戦績とともに、沖縄時代のケンカボーイそのままに殴り殴られのスリリングな試合内容がロスの観客の心をつかんだ。勝利後のリングで披露する後ろ宙返りが評判となり、会場では晴治に「フリッパー」の掛け声がかかった。

「フリッパー」は当時、米国で人気だったイルカが主役のテレビドラマで、宙返りで感情を表す姿がかわいかった。日本でもフジテレビ系列で「わんぱくフリッパー」の邦題で昭和41年から繰り返し放映されたから、ご記憶の方も多いだろう。

フリッパーは、そのまま晴治のリングネームとなった。

■ ■

フリッパー上原の人気は熱狂的で、「上原兄弟」はいつしか「フリッパー兄弟」と呼ばれるようになっていた。康恒が「フリッパー」と間違われることもあり、兄としては少々面白くない。「そんなに客が喜ぶなら」と、康恒も試合後にバク転を試みたことがある。だが失敗して後頭部から落下し、リングにしたたか打ち付けた。「あれはそれまでに打たれた、どのパンチよりも痛かったな」

帰国初戦もKO勝利で飾った康恒は昭和48年8月4日、沖縄のリングに凱旋した。会場では晴治も帰国のあいさつに立ち、大声援に迎えられた。康恒がリッキー沢を下したこの試合は沖縄テレビで中継され、視聴率は80%に達したという。それでも「もう一度見たい」という要望が殺到し、特別番組として再放送が放映された。この年11月には、兄弟のさらなるビッグマッチが沖縄で組まれる。(別府育郎)

(13)へすすむ

  1. ロシア軍に内部混乱か 「終末の日の飛行機」観閲中止の背景 「戦争宣言」踏みとどまるプーチン氏 「空軍内部の反発やボイコットの可能性も」世良氏

  2. 23日スタート「ちむどんどん」第7週あらすじ 房子は暢子に因縁? 良子は金吾から執ような求婚を受け続け…

  3. 「鎌倉殿の13人」5月22日OA第20話あらすじ 奥州へ逃れた義経を討つよう、頼朝から命じられた義時は…

  4. 【底辺キャバ嬢の盛り場より愛を込めて】困窮女性の大量参入で「ヤバいパパ」が急増 シャワー浴びてる間に財布からお金を盗み逃走

  5. 露軍、渡河失敗で打撃 英国防省が分析