体重無差別で争う、さきの柔道の全日本選手権で、東京五輪男子73キロ級金メダリストで五輪2連覇中の大野将平(旭化成)が90キロ級の相手に1回戦で敗れた。果敢に技を仕掛けたが、「柔能(よ)く剛を制するは幻想にすぎない」と、現実を口にした。
「柔能く-」は中国の兵法書「三略」が出典で、柔道では「相手の力を巧みに利用して小柄でも体格の大きい者を豪快に投げられる」という体重の壁を乗り越える真髄(しんずい)に通じる言葉でもある。組み合って展開する柔道とは趣を異にして、大相撲では「小よく大を制す」。令和元年九州場所では98キロの幕内炎鵬が、2倍以上も重い碧山(199キロ)を引き落とし、館内を沸かせた。
相撲は相手より先に土俵の外へ出たら負け。土俵のなかでは、足の裏以外の部位が相手より先についた瞬間に負けとなる。ボクシングのようにロープにもたれることや、柔道のような「場外」もない。単純な力比べではなく、相手のバランスを崩すことが有効で、体重の軽い力士が、大男を破る場面はしばしば訪れる。
「技のデパート」といわれ、現役時代は100キロに満たなかった元小結の舞の海秀平さん(54)=大相撲解説者=は「(相撲に)立ち合いがなかったらどんなによかったか」と当時から苦悩し、得意の左を深く差す自身の型になるまでの動きに腐心していた。一方、炎鵬は「小さな力士が勝てるのは立ち合いがあってこそ。かけひきや、当たってからの流れが大事」とする。
小兵でもこだわる観点は違うようだが、120キロ前後の小兵といわれる力士とそれ以外の力士が100勝を挙げるまでの決まり手を一定期間調べた数字があり、小兵以外の力士は20種類強だったが、小兵はそれより10種類も多い技を使っていた。
その妙味は、出てはいけない「結界(土俵)」が生むものだろう。丸い土俵を巧みに使えば、無限の円運動が可能となり、間合い(スペース)もつくりだすことができる。
江戸初期(延宝年間)に書かれた「相撲強弱理合書」によれば、土俵ができたのは16世紀の安土時代で、戦国武将の織田信長が上覧相撲を催したそのときを始まりとしている。信長の性格もあってか、勝負の白黒を明確にして優秀な勝者を召し抱えてもいる。
このとき、信長の発想に「柔能く-」があったとすれば、その〝先見の明〟は幻想ではなかったことになる。(奥村展也)