3.源義経はあんなに能天気な人物だったのか
源義経の人間像を探るのは、非常に難しい。『平家物語』では、義経と梶原景時が作戦などをめぐって盛んに衝突し、挙句の果ては、景時が頼朝に義経の素行を讒言した。『平家物語』ここで描かれる義経像は、年長者をも蔑ろにする、生意気な奴ということになろうか。
「鎌倉殿の13人」の過去の回でも、義経の言動はいささか常軌を逸脱している。たとえば、義経が猟師と獲物の取り合いになったときは、遠くまで矢を射かける勝負を挑んだたにもかかわらず、いきなり矢で猟師を射てしまった。騙し討ちである。
とにかく義経が奔放なのは、以後の回でも同じで、野生児そのものである。初めて頼朝に対面したときは、「顔が似ているでしょ!」と盛んにアピールしていた。いくら兄とはいえ、不遜な態度が目に付く。軽薄でもある。
別の回では、義経が政子の側に近寄り、甘えて膝枕をしてもらっていた。実際に、こんなことがあったのか否かは不明である。あまりの馴れ馴れしさに辟易とする。
ほかにも兄の義円を陥れようとしたり、亀の家を襲撃したり(義経は実行犯ではない)、「戦がしたい!」と駄々をこねたりとやりたい放題、言いたい放題である。本当に義経は、そんな人物だったのだろうか。
養和元年(1181)7月、鶴岡若宮宝殿で上棟式が催し、頼朝以下、多くの御家人が参列した。その際、頼朝は大工に馬を与え、義経に馬を引くように命じた。
驚いた義経は、暗にそれを断ろうとしたが、頼朝は「馬を引く仕事が卑しいので、断ろうとしているのではないか」と手厳しく叱責した。義経は頼朝の強い態度にたじろき、渋々馬を引いたのである。これはいったい、何を意味しているのか。
頼朝は、いうまでもなく源氏を率いる棟梁である。彼の配下には、東国の有力な豪族たちが集まっていた。ただし、配下とはいえ、彼らの力なくして、頼朝の存在はあり得なかった。
一方、義経は頼朝の弟とはいえ、地盤や郎党さえ持たない新参だった。頼朝と同じ源氏の血を引くとはいえ、いきなり大抜擢するには、ほかの諸豪族の兼ね合いもあり、躊躇するところがあったと考えられる。
それは、義経も承知していて、不満があってとしても、頼朝に従わざるを得なかっただろう。頼朝から義経を見れば、弟というよりも、諸豪族のなかの一人だったのではないか。
おそらく現実の義経は、大河ドラマのようなふざけた能天気な人間ではなく、多少は常識を弁えた人物ではなかったか。ただし、後年になって頼朝と不和になったのは、いささか軽率な面があったように思う。
4.文覚は全成と激しい読経バトルをしていない。
源頼朝が平家と対峙している頃、東北で勢力を誇っていたのが藤原秀衡である。頼朝は秀衡がいると軍事行動をとれず、「何とかならんのか」とぼやく。
弟の全成が懸命に祈禱をしているが、それでは不十分で、頼朝は「ほかにおらんのか!」とまたぼやく。すると、北条義時が「平清盛を呪い殺した者がおります」ということで、姿をあらわしたのが文覚である。
文覚は頼朝の前に姿をあらわすと、すぐに全成が読経をしている部屋に直行し、その隣で大きな声で読経した。全成も負けじと大声でお経を読むと、文覚もヒートアップ。全成の妻・実衣も夫を応援すべく大声で読経し、お茶の間は大爆笑という具合である。
『吾妻鏡』養和2年(1182)4月5日条には、文覚が藤原秀衡を調伏(怨敵、敵意ある人などを下すこと)をした記事がある。
この日、頼朝は腰越(神奈川県鎌倉市)を出発し、江の島(同藤沢市)へと向かった。頼朝には、多くの豪族が随行した。むろん、これには理由があった。
文覚は頼朝の要請により、当時、鎮守府大将軍だった藤原秀衡を調伏するため、江の島の弁才天で供養法を行うことになっていた。ただし、『吾妻鏡』には「激しい読経バトル」のことは書かれていない。それは、単なる創作である。
市川猿之助さんがかなりのオーバーアクションで文覚を演じるのは、ドラマ「半沢直樹」の延長線上であろう。たぶん、文覚はあんな僧侶ではなかっただろう。
【まとめ】
念のために申し上げると、ありえない場面があるからと言って、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を全否定する気は毛頭ない。大河ドラマはあくまでフィクションである。ありえない話、架空の人物で楽しませる技術は立派なものである。