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取り戻したい、「静」の日々 「暗夜行路」志賀直哉

産経ニュース

「志賀直哉」を読み始めたのは中学3年の秋だった。戦後の学制改革でこの昭和23年は私の学校でも男女共学となり、秋の文化祭は女子生徒らが工夫を凝らし、華やいだ催しとなった。

文芸部の部屋に入ると教壇の黒板と、さらにもう一つの黒板を使って路地のようなトンネルを作っていて、これを潜ると「暗夜行路」のはり紙があった。名前しか知らない作家に好奇心が湧き、読んでみようと思った。

短編から読み始め、『暗夜行路』へ読み進んだが読書力の乏しい少年は短編『剃刀』などのインパクトに「すごいな」と思うだけだった。その後、大学生になってから再読した。

初期の短編では主人公が正義を貫こうとする「動」が軸となっていて、後期のものは出来事や風景を見つめた「静」が美しい筆致で綴られているのに惹かれた。『暗夜行路』は前半、主人公、時任謙作が自らの出生の秘密を知って思い悩み、幾人もの女性たちに惹かれる場面が描かれる。その後、妻の過ちを知り、さらに過酷な運命に翻弄されるが強い意志で生きていく。感情の揺れる「動」から終盤、穏やかさを取り戻す「静」への展開がみごとだった。

私は一昨年、50年間働いた自分の医院を閉院し、父の代から80年間、私を育ててくれた医院を解体した。しばらく無気力な抜け殻のようになったが、自分にも若い「動」の日々があったと考えることで自らを慰めた。

思えば「暗夜行路」という四文字の重みが現在、新型コロナと闘う人類と重なる。人類は何度も感染症と闘い、絶滅を免れてきた。そこへロシアのウクライナ侵攻が重なった。

医師を引退し、お役に立てない老人だがトンネルの先に光が射す日を見届けたい。「静」の日常が戻ってくることを、切望している。

大阪府東大阪市 望月隆昭(88)

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