ロシア軍がウクライナで民間人虐殺を行っているとの報道が相次ぐ中ではあるが、ロシア語通訳者でエッセイストでもあった米原万里さんの「ロシアは今日も荒れ模様」(1998年)を読み返してみた。経験豊富な米原さんから飛び出すロシアの話の数々はいずれも愉快だが、他方でこの国の深刻な事情にも的確にメスが入れられている。愛すべきロシアと、どうしようもないロシアがごった煮になっている様子がリアルに描かれている。
私自身はロシアには2度(2014年と17年)訪れたことがあるだけなので偉そうなことは何も言えないが、どうしようもないロシアとともに、米原さんの愛すべきロシア(と言うかロシアの人々)への言及には多々うなずかされた。私が読んだ講談社文庫版のあとがきの次のような箇所にもうなずかされた。いわく、「ロシアとロシア人は退屈しない。おしなべて人懐っこい上に(中略)、直接相手の魂に語りかけてくるような気取らないタイプが多い」。
産経3月31日夕刊(大阪本社発行)に「『モスクワの味』は友情の証し」と題された記事があった。年配の関西人なら誰もが知る「パルナス製菓」の回顧展にまつわる記事である。私がピロシキのことを初めて知ったのも、思えばパルナスのお店でのことだった。記事によれば今年は設立から70年、事業清算から20年の節目に当たるという。
記事中に「パルナスの母」と呼ばれるオージナさんのエピソードがある。モスクワの製菓工場の主任技術者であったオージナさんとパルナス創業者との出会いと交流で、オージナさんからの手紙もたくさん残っている。その中には「生きている限りパルナスとの友情を胸に抱き続ける」との文面もある。
米原さんの言う、ロシアの人々の「直接相手の魂に語りかけてくるような気取らない」気質が感じられて興味深い。ウクライナでのロシア軍の蛮行が報じられる最中、パルナスのピロシキを受け継ぐ大阪府豊中市の喫茶店経営者の語る言葉があまりに切ない。「ロシアの行為は許せないが、ピロシキに罪はない」
ロシア軍による民間人虐殺についてはただただ絶句するほかないが、ただ、怒りや悲しみが強くなりすぎると、物事の二面性や多様性に目が行かなくなってしまいかねない。新聞には戦争という人間の愚かさや虚(むな)しさに対しては、ぜひとも冷静かつ的確な判断をとり続けていただけるようお願いしたい。ところでピロシキはロシアにもウクライナにもある。ウクライナのピロシキにエールを送り、この拙文を終えることにしよう。
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【プロフィル】森村泰昌
もりむら・やすまさ 昭和26年、大阪市生まれ。京都市立芸大専攻科修了。ゴッホなど名画や歴史的な人物に擬した写真作品を発表。著書に「自画像のゆくえ」など。