《西武ライオンズでの2年目となる昭和61年、監督が森祇晶(まさあき)さんに代わった。物事の進め方などをめぐり田尾さんとは馬が合わなかった。大阪・PL学園高校からドラフト1位で入団してきた清原和博さんにどこを守らせるかでも、意見が食い違った》
森さんは僕とは合いませんでした。「清原に三塁を守らせたい」と自分の考えを言えばいいのに、そういう言い方をしない。「清原をサードで使い、秋山(幸二)はセンターに回す。田尾はファーストでやってくれるか」と言ってくれれば、「分かりました」と言うのですが…。全部、意見を聞き出すんです。そして「秋山のサードはスローイングが甘い」とか、まず欠点を挙げるんです。僕は「秋山の打球への反応は12球団イチですよ」と反論しました。「秋山のあの動きは、誰もまねできませんよ」と伝えました。
そもそも「どう思う?」と聞いてくるので、「清原は高校野球のスーパースターですが、プロの実績はまだゼロです。そう考えたら、最初は一番得意なポジションであるファーストでプレーさせてみたらどうですか」と僕の意見を言ったんです。ファーストでプレーさせてみて、この動きだったらプロのサードでも務まるというのを見極めてから、サードに回せばいい。僕は「清原1人のために、3つのポジションを代えて冒険するのは、あまりいいやり方ではないでしょう」という話をしました。それから森さんと合わなくなっちゃったんです。だけど、清原は結局、ファーストで終わりましたよね。
《その年、西武は2年連続でリーグ優勝。日本シリーズでも広島東洋カープを下して3年ぶりの日本一に輝いた。しかし106試合の出場にとどまり、打率2割6分5厘に終わった田尾さんは、管理部長の根本陸夫さんにトレードを志願した》
森さんとそういうことがあって、出番が少なくなりました。日本シリーズでは使ってもらいましたが、翌年のことを考えると、たぶん冷遇される。それが見えていたので、根本さんに「トレードに出してくれませんか」とお願いしました。根本さんは、一言でいえば親分です。外に出したらいけないことは、絶対に言わない人。根本さんだから、僕は言いました。誰にでも言える話じゃありません。「なんだ、こいつは」となるだけですから。でも、根本さんなら聞いてくれる。そういうことを感じさせてくれる人でした。
根本さんに「何かあったのか?」と尋ねられたので、僕は「もう森さんの下では、やりたくありません。裏表がありすぎます」と、はっきりと言いました。ある程度の年齢になっていましたし、みんなが同じ方向を向いている環境でプレーしたかったんです。根本さんの懐は大きいですね。そのときに「横浜でもいいか?」と言われて「はい、ありがとうございます」と答えました。
《すっかり横浜大洋ホエールズに移籍するつもりになっていた田尾さん。しかし、新天地はまったく違う場所だった》
家に戻って女房に「(引っ越し先は)横浜になりそうだ」と話しました。実際に横浜にマンションを探しに行って、手付けまでうちました。でも、横浜じゃなかったんです。トレード先が決まったとの連絡を受け、球団に聞きに行ったら、阪神タイガースだったんですよ。
その話をすると、女房は「芦屋夫人と呼ばれたいな」と言ったんです。それで、芦屋で住む場所を探しました。僕は野球さえできれば、住むところはどこでもよかった。そこは女房の好きなところに住ませてあげたかった。でも「芦屋夫人…」の一言も、すごく僕をほっとさせてくれました。(聞き手 北川信行)