文芸時評

3月号 ノイズこそ文学である 早稲田大学教授・石原千秋

産経ニュース
早稲田大学教授の石原千秋さん
早稲田大学教授の石原千秋さん

コムデギャルソンにブラックコムデギャルソンというレーベルがある。どうしてノワールではなくブラックなのかと不思議に思っていた。「あっそうかも」と思ったのは、「今でも、フランス人(白人)のなかには『ノワール(noir:黒人)』という語を避けて、より婉曲(えんきょく)な『ブラック(black)』という言葉を使う人が多い」(オレリア・ミシェル『黒人と白人の世界史』児玉しおり訳、明石書店、令和3年)という説明を読んだときだ。もちろん、人種差別主義者だと勘違いされないためだ。コムデギャルソンファンだと何度も言っておきながら、これまで知らなかった。恥ずかしいことだ。問題は恥ずかしい思いをすることではなく、そこから学ばないことだと自分を慰めている。

この本では、人種という概念ができたのはかなり遅く、優生学や骨相学などの科学によって作り出されたと説いている。ヨーロッパの国々がアフリカから多くの人々を南米などに連れ去ったのはそれよりずっと以前だから、時系列的におかしいと思われるだろう。オレリア・ミシェルはこう言うのだ。ヨーロッパ人は人種主義者だったからこういうことをしたのではなく、「ヨーロッパ人は、アフリカ人を奴隷にしたために人種主義者になったのだ」と。科学が事後的にヨーロッパ人の行いを理由付けしたことになる。これは男女差別にも言えることだ。

シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女 資本主義に抗する女性の身体』(小田原琳・後藤あゆみ訳、以文社、平成29年)では、魔女とされたのは女性だけではないが、「数世紀にわたってカトリック教会が女性に対してくりひろげたミソジニー(女性蔑視=石原注記)がなければ、魔女狩りは不可能だっただろう」と述べている。一方、「受動的で従順、つましく、口数少なく、つねに忙しく働き、慎み深いという理想的な女性であり妻であった。女性が国家テロ(魔女狩りのこと=同)にさらされつづけて二世紀以上経た一七世紀末から、この変化ははじまった」とも述べているから、ミソジニーも事後的に形成されたのかもしれない。近代日本で女性に賢母良妻(良妻賢母という言葉になるのは明治後半から)が求められて社会から切り離されたのは、近世の儒教道徳のほかに、近代になってヨーロッパから輸入された生物学の影響が強く働いた結果である。男女は体の仕組みがこんなに違うからできることも違うと、男性は外へ、女性は内へとされた。賢母良妻は近世の古い思想の名残でもあり、同時に生物学という科学に裏付けされた新しい思想でもあった。

先月、水上文「『娘』の時代 『成熟と喪失』その後」(文芸)を高く評価して、こういう一節を引用した。「端的に言って、母と娘がともに『女』であることは、本来的に様々に異なる人間のあらゆる同一性を意味するものではない。にもかかわらずそれが見落とされているのだとしたら、結局のところ斎藤(斎藤環=同)の語る母と娘の『同一性』は、『女』と名指された存在の個別具体性を、『女』たちの間の差異を消去する働きしか持っていないように、私には思える」と。そして僕はすぐに一般論に話題を広げて、この論法を使うなら「最近、『男』と一括りにする粗雑な言説が溢(あふ)れかえっている」と述べた。先月のテーマは具体性だったからだ。小説の仕事は人種のような「種」に括(くく)ることではなく、具体の側に立つことだ。ただ、詳しく言えばこうだろう。これまで女性も男性も同じように括られて語られてきた。問題は、女性はより多く否定辞によって語られ、男性はより多く肯定辞によって語られてきたことにあると。だから繰り返す。文学の仕事は括ることではなく具体の側に立つことだ。なぜなら、具体は常に思想を裏切るからである。括りきれなかったノイズが文学なのだ。

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