戦国・織豊時代は奴隷の時代…涙なしでは語れない日本人・朝鮮人奴隷のエピソード3選

【その3】文禄・慶長の役における朝鮮人奴隷の連行

文禄・慶長の役の際、朝鮮人が売買された状況は、『朝鮮日々記』という史料で確認できる。『朝鮮日々記』を書いたのは、臼杵城主・太田一吉に仕える医僧で、臼杵・安養寺の僧・慶念である。

慶念は慶長の役に従軍し、戦争を記録するとともに、望郷の念などをときに狂歌を交えながら書き綴った。慶長2年(1597)6月から慶長3年(1598)2月までが記録されており、朝鮮出兵における悲惨な状況を記した貴重な史料である。

慶長2年(1597)11月、日本軍は攻防の拠点とするため、蔚山に城を築くことになった。このとき大量に動員されたのが、日本から徴発された人々であった。彼らは昼夜を問わず、築城工事に動員され、その疲労は極限に達していた。

ところで、こうした状況下、ついに人買商人の姿が『朝鮮日々記』にあらわれる。次に、示すことにしよう。

「日本からさままざまな商人たちが朝鮮にやって来たが、その中に人商いをする者も来ていた。奥陣のあとをついて歩いて、老若男女を買うと、首に縄を括りつけて一ヵ所に集めた。人買商人は買った朝鮮人を先に追い立て、歩くなくなると後から杖で追い立てて走らせる様子は、さながら阿防羅刹(地獄の鬼)が罪人を攻める様子を思い浮かべる」

人買商人は、常に軍勢の後ろからついていって、雑兵から生け捕りにした朝鮮人をおそらく二束三文で買い叩いたのであろう。買った朝鮮人には、逃亡しないように首に縄を括りつけ、後ろから追い立てるようにして、彼らを誘導した。

その後、朝鮮人奴隷は、港から船で日本へ運ばれ、ある者は日本で転売され、またある者はポルトガルの商人らに転売されたと考えられる。さながら慶念が言うように、地獄絵図であった。

同様の記述は、『朝鮮日々記』の別の箇所にも見ることができる。慶念は朝鮮人の女性たちが集められ、人買商人に引き渡されている様子を狂歌にし、次のように文章を継いでいる。

「人買商人はかくの如く奴隷を買い集め、たとえば猿の首に縄を括って歩くように、奴隷に牛馬を引かせたり、荷物を持たせたりして責める様子は、実に痛ましい光景である」

彼ら朝鮮人奴隷は牛馬のように、肉体労働に従事させられた。それは、男女の区別もなかったようである。

『延陵世鑑』という書物がある。同書は延岡藩の侍医を務めた白瀬永年に手になるもので、19世紀に成立したものだ。そこにも以下のとおり、ほぼ同様の記述がある。

「高橋勢が往来するごとに、朝鮮から老若男女を問わず、生け捕られて奴隷となった。その数は、何百人いたかわからない。そのような中にも、幸運な女性は妻妾となり、男は主人から許可を得て妻子をもうけ、生活する者があった。長生きした者は、慶安・承応(1648~55)まで存命で、その子孫は今も多い」

文禄・慶長の役から300年近く経過しているが、おおむね史実として認めてよいであろう。生け捕りされた男女のうち、結婚して家族を持つことができた者は、極めて幸運だったようである。なぜなら、奴隷は家畜に等しい存在だったからだ。

【まとめ】

実は、日本における奴隷制というのは、合法的ではなかった。しかし、戦国時代には、人やモノの略奪を意味する「乱取り」が行われ、奴隷制の禁止は有名無実になっていた。

一方、海の向こうのヨーロッパでは、アフリカから黒人奴隷を連行し、労働に従事させていた。タダで働く奴隷を手にした彼らは、もはやブレーキが利かなくなっていた。

つまり、奴隷はタダもしくは安価に買うことができる貴重な労働力だった。戦国・織豊時代は、不幸にも捕らえられた日本人・朝鮮人奴隷が世界を駆け巡った不幸な時代でもあったのである。

関心がある方は、渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書、2021年11月)をご一読ください。

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