話の肖像画

輪島功一(27)「女性大歓迎」のジム開設で新機軸

産経ニュース
会長職からは退いたが、今もジムに姿を見せ、指導に当たる =10月21日、東京・西荻窪の輪島功一スポーツジム(酒巻俊介撮影)
会長職からは退いたが、今もジムに姿を見せ、指導に当たる =10月21日、東京・西荻窪の輪島功一スポーツジム(酒巻俊介撮影)

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《引退から10年後の昭和62年12月、念願だったボクシングジムをJR中央線の吉祥寺駅(東京都武蔵野市)近くに開設。「老いも若きも」をキャッチフレーズに、「女性練習生大歓迎」をうたう新機軸のジムとして注目された》

タレント業とは一区切りをつけ、だんご店2店も末弟と妻の妹夫妻にほぼ任せることにして、かねての計画通り、ジム経営に乗り出しました。

まず名前を「輪島功一ボクシングジム」ではなく「輪島功一スポーツジム」としました。ボクシング選手になろうという人だけではなく、広くスポーツを楽しみたいという人にも大勢来てほしいという願いを込めたのです。また、男の汗と涙がしみこんだど根性物語の舞台といったボクシングジムのイメージを刷新したくて、女性の練習生も大募集しました。これは当時としては革新的なことでした。

女性用の更衣室やトイレもつくり、月謝も男性1万円に対して女性は7千円と安く設定。まだ男性しかプロボクサーのライセンスは取れない時代でしたが、美容、シェイプアップ、運動不足解消…を目的とした女性たちが続々と入門してくれました。吉祥寺という場所柄も手伝ったと思いますが、多いときは200人前後いた練習生のうち約60人が女性でした。

《見に来たボクシング関係者は目を丸くして驚いた》

「輪島はチャンピオンを育てる気がないから、こういうことをしているのだろう」などと陰口もたたかれましたが、それは違う。何も健康ブームに乗って金もうけをしようと思ったわけではありません。志の高さは、多くのチャンピオンを輩出してきた名門ジムと同じです。

当時の日本は、バブルの絶頂期に向かってまっしぐらの「金満時代」。何も痛い思いをしてまでボクシングで一獲千金を夢見る若者はほとんど姿を消していた。日本ボクシング界の低落も始まっていました。

こうした状況を打破するには、ボクシングのイメージを変えて愛好者の底辺を広げる必要があった。ハングリー精神の欠如うんぬんよりも、まず何より、底辺の縮小による頂上のレベルダウンを避けなくてはいけないと考えたのです。そのためには、女性にボクシングを正しく理解してもらうことはファンの開拓にもつながり、大変意味のあることです。

《ジムはその後、移転。会長職は今年4月に次男の大千(ひろかず)さんに譲るまで34年間続けた》

吉祥寺には5年いました。ジムが入っていたビルが道路拡張で立ち退くことになり、隣の西荻窪駅に近い現在の場所(東京都杉並区)に移りました。

私は将来有望な高校や大学の選手をスカウトして入門してもらうということはしてきませんでした。私自身、偶然の出会いで三迫ジムに入り、世界チャンピオンになれたという経緯があるので、自分でジムを開いてからも常に「出会い」を大切にしてきました。

ほとんどの練習生がゼロからのスタートですが、同じ年に3人もの全日本新人王が輪島ジムから出たこともありました。世界王者は私の代では出せませんでしたが、東洋王者は1人出しました。ただ、私が教え込んできたのは、頑張る心や、簡単なことに一生懸命取り組むこと、つまり基本を体にしみこませることの大切さです。細かい技術は、教えたことの10のうち2か3でしかありません。

練習生たちには「心技体」ではなく「心体技」だよと言い聞かせ、ジムにもこの言葉が掲げてあります。(聞き手 佐渡勝美)

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