日本ハムの〝BIGBOSS〟こと、新庄剛志新監督(49)がスターへの階段を駆け上がった阪神の若手時代。当時の番記者が「虎のプリンス」の事件簿を紐解きます。
前年オフの引退騒動でミソを付けた新庄だが、年が変わって1996年も〝お騒がせ男〟ぶりは健在。大事な商売道具の右肘に痛みなどの異変が生じたのに、トレーナー陣に一切報告せず反感を買ってしまったのだ。
そもそも前年は右肘痛の影響で87試合しか出場できず、打率・225、7本塁打、37打点と大不振。心機一転で再起を図るはずが、1月に大阪市内のスポーツジムで、自身初の単独自主トレを公開した新庄は〝激やせ〟していた。ほおはやせこけ、筋肉も落ちた様子。すべては右肘の不安が招いたものだという。
新庄は「以前は休んでいたら治ったが、今は鍛えたり、マッサージをちゃんとやらないとダメになっている。ドアを開けるときでも痛い」と状態の深刻さを明かし、新しいシーズンで目標とする数字を問われても一切応じず。「ケガをしないようシーズンを乗り越えること。去年でケガが本当に怖いと思ったから」と語るのみだった。
この衝撃告白に憤慨したのが、新庄の肉体を預かるトレーナー陣。「なぜ痛いなら痛いと報告しないのか。われわれも故障した箇所は気にしているのに、オフの期間中、何も言ってこないから右肘が今どうなっているかがわからない」とブーイングが起こったのだ。日常生活でも支障をきたすほどの痛みとあっては、心配するのも当然。しかも、新庄が自ら作った調整メニューで患部をケアをしているようでは、なおさら放っておけない。
これほどまでに意思疎通を欠いた背景には、新庄のトレーナー陣への根深い不信感があった。前年のシーズン終了後、新庄は冷戦状態にあった藤田監督代行に、秋の教育リーグへの参加を命じられた。新庄は右肘痛を理由に「監督に僕の参加を止めることはできないですか」とトレーナー陣に相談していたのだが、指揮官を説得するには至らず…。教育リーグではDH、一塁まで守って全試合に出場したが、さすがの新庄も「靱帯が切れたらどうするの!」と激怒したのだった。
この一件を境にトレーナー陣との溝が広がり、新庄は右肘の状態を一切報告することもなく、1人で自主トレを行うこととなったわけだ。大人げない態度にも映るが、角度を変えれば〝自分の体は自分で守る〟という本当の意味でのプロ意識が芽生えたといえるかもしれない。新庄がその後の野球人生で大きな故障に見舞われなかったのは、誰が何を言おうと気にしない、こうした〝わがまま〟を貫いたからだ。 (岩崎正範) =明日に続く