先日の午前中、机の前で2時間ほどの仕事を終え、椅子から立ち上がろうとしたら、立てない。
ものすごく痛い。
痛い、痛い、痛い…、と部屋の中で1人声をあげるもどうにもならない。机に手をついて、なんとか歩こうとしたが歩けない。困惑しつつ腰を曲げたままで、しばし呆然(ぼうぜん)としていた。
そのうちに、ようやくそろり、そろりと歩けるようにはなったものの、なぜ突然、こういうことに? と途方に暮れてしまった。
それから、気を取り直し、数軒先の友人のところへ行って、「腰が…」と訴えたら、彼女がニヤリとした。
「誰でも年をとるとね、そういうことがあるのっ、大丈夫、まだ治るから」
「ええっ、治るの? いつ?」
「数日かな、ま、1週間かな」
それを聞いて、ほっとしたような、情けないような。
どうも年甲斐(がい)もなく動き過ぎたらしい。原因は、数日前の「原っぱ」イベントで、豚汁の大鍋を1人で運んだり、一日中立っていたりしたせいと断定された。
聞けば、若いときは、無茶(むちゃ)をするとすぐ症状が出る。ところが、高齢になると、数日後になって症状が出てくるのだそうだ。
そんなことを私は聞いたこともなかったけれど、何人もの人がそう言うので、それが常識というものらしい。
これって、速度の遅くなったコンピューターみたいなことなのだろうか。脳に情報が伝わって、体に「防御せよ」と指令が出るのがずいぶんと遅くなっちゃった、ということだろうか…。
などと思いつつ、彼女から「いつなにが起こるかわからないのだから、これを常備せよ」と杖(つえ)を貸してもらった。
借りた杖は華やかな花柄で、おしゃれな彼女は、こういうところにも手を抜かないのだなあ、と感心してしまった。
さらに、部屋に戻って彼女がくれた湿布テープを背中や腰に貼りまくり、しばしベッドに横たわっていた。
そして、しみじみ思った。
このまま歩けなくなれば、運転もできなくなり、旅にも行けなくなり、掃除も片付けも、ペンキ塗りもできなくなるのだなあ、と。
そんな自分を支えてくれるのは、いくつかのかけがえのない思い出だけ、と記憶をたどり始めたらせつなくなってしまった。
こうして、わが身になにかが起こる度に「老いの自覚」を更新する日々へと、私は向かっている。
(ノンフィクション作家 久田恵)