話の肖像画

輪島功一(12)無意識に出た「カエル跳び」世界奪取

産経ニュース
6ラウンド、ボッシ選手(左)に「カエル跳び」を仕掛けようとする瞬間。勝負の分岐点だった=昭和46年10月31日、東京・日大講堂
6ラウンド、ボッシ選手(左)に「カエル跳び」を仕掛けようとする瞬間。勝負の分岐点だった=昭和46年10月31日、東京・日大講堂

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《デビューから3年4カ月、イタリアのカルメロ・ボッシ選手に挑んだ世界J・ミドル級タイトルマッチは昭和46年10月31日、現在は両国国技館に建て替わっている東京・日大講堂で行われた》


ボクシング専門家の予想は、圧倒的にボッシ選手有利。私にはほとんど勝算がないような感じでした。ただ、1960(昭和35)年のローマ五輪ボクシング・ライトミドル級銀メダリストで正統派のアウトボクシングをするボッシ選手と、八方破れの変則ボクシングが特徴の私とでは、両極端の取り合わせなため、試合展開は予測不能との見方が強かった。どちらが主導権を握るかがポイントでした。

試合開始前の国歌演奏では「君が代」が流れると、国を代表しているという誇りで胸がいっぱいになり、不思議なことに「キーン、キーン」と風を切る音が耳の中でし出したのです。それは、同時に脳裏に浮かんできた日本の戦闘機が敵艦めがけて突っ込んでいく音でした。玉砕覚悟。この一戦に全身全霊、すべてを懸ける思いでした。


《試合は5ラウンドまで動きらしい動きもなかった。膠着(こうちゃく)状態を打破したのが、自身の代名詞にもなった「カエル跳び」だった》


私はボッシ選手の懐に飛び込み、接近戦の打ち合いに持ち込みたかったのですが、付け入るスキが全くなかった。一方、ボッシ選手は、左のリードパンチを繰り出す以外はほとんど打ってこなかった。チャンピオン側は引き分けでも防衛だし、無理してこなかったのです。

このままではジリ貧に陥ってしまうと危機感を強めた6ラウンド、私はとっさに尻がリングにつくほどしゃがみ込み、跳び上がりざまに左フックを放ったら、これがきれいにボッシ選手の顔面にヒットしたのです。一連の動作は全く無意識に出たもので事前に用意していた技でも何でもありません。「カエル跳び」が生まれた瞬間でした。

この一発で試合が動き出した。ボッシ選手の顔は「この野郎、何てことをしてくれたんだ。ふざけるな」とでも言わんばかりの怒りであふれ、冷静さを失っていくのが分かった。私の挑発にも応じて打ってくるようになった。


《勝敗を分けたのは、ラスト5ラウンドの攻防だった》


私はそれまで11ラウンド以降を経験したことがなかった。ボッシ選手は私がもうばてているだろうとみて、11、12ラウンドと俄然(がぜん)、攻勢に出てポイントを奪いました。しかし、私はスタミナには自信があった。13、14、15ラウンドは逆に息切れし出したボッシ選手に反撃を加え、私が取りました。結果は、スプリットデシジョン(3人の判定が2対1に分かれること)で私の判定勝ち。ラスト3ラウンドを制した私が逆転したのでした。

「勝者、挑戦者・輪島功一」とコールされると、私はコサックダンスを踊るかのような大ジャンプをリングで繰り返し、喜びを爆発させました。

この人生の大一番で私を勝利に導いてくれたのは、まぎれもなく「カエル跳び」でした。実はこの技が生まれたのには伏線がありました。ジムの三迫仁志会長と東京五輪金メダリストの桜井孝雄先輩が以前、打たれずに接近する戦法として、この技を研究していたのを見ていたのです。「面白い戦法だな」と私は眺めていたのですが、二人の結論は「有効だが体力の消耗が大きいので実戦向きではない」というものでした。このときの記憶が私の頭の片隅に残り、あの切羽詰まった場面で無意識に「カエル跳び」が出たのです。

夜、祝勝会も終わり、ホテルの一室で一人になると、喜びに浸る中、北海道での少年時代の光景が脳裏をめぐりました。(聞き手 佐渡勝美)

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