歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡

中森明菜、曲・詞ともにコンペ形式 作家にとって非常に低い採用率

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アーティストとして成長していく明菜
アーティストとして成長していく明菜

中森明菜の音楽制作はデビュー以来、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の島田雄三が担当してきた。それが1985年、洋楽部のカリスマ・ディレクターだった藤倉克己に代わったことで、アーティスト色を前面に出したサウンド志向の楽曲作りへと変貌した。当時を知る古参の音楽関係者はこう話す。

「島田さんはいわゆる、職業的気質のディレクターだったかもしれません。ですからヒット曲を作る力はありましたが、音楽性という部分では明菜との間に大きな隔たりがあったように思いますね。作品作りではことごとく衝突を繰り返してきたし、スタジオでは明菜が意識的に避けるようになっていました。もっとも島田さん自身はヒット曲を作ってきたという自信もあってか、『最後は自分を頼ってくるはず』という淡い期待を抱いていたようです。しかし明菜は、それまでのアイドルとは違っていたのです。結局は明菜自身が納得できるかどうか、信頼できるかどうかだった。そういう意味で制作手法を含めた音楽センスの違いは致命的だったのかもしれません」

というが、そんな明菜について藤倉は率直に振り返る。

「基本的に作品については最初からすべて任せてくれました。島田さんと明菜との関係については分かりません。ただ、根本的に僕と島田さんとは制作手法が違っていたと思います。というのも僕は曲先行でしたので毎回、候補曲として4曲を明菜に渡していました。で、明菜は候補曲を耳にすると、その場で衣装のデザインから振り付けまですべてを考えていましたね。ステージで歌っている自分の姿を聴きながらイメージするのです。結局、明菜は自身の作品を任せられられるかどうかだった。ですから彼女にとって音楽センスは重要だったのではないでしょうか。納得した衣装や振りがイメージできるかどうかですからね」

そんな中で『ミ・アモーレ[Meu amor é…]』『赤い鳥逃げた』『SAND BEIGE―砂漠へ―』、『SOLITUDE』、そして『DESIRE―情熱―』という流れは、自らの潜在的才能を開花した明菜ならではの独自路線だった。

「作品から見ても明菜は、まさにオンリーワンのアーティストとして成長していった」(前出の音楽関係者)

しかもそれは曲だけではなかった。藤倉の制作手法について作詞家の松本一起は振り返る。

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