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第一次世界大戦を経て、世界のリーダーとなった日本は、パリ講和会議(1919=大正8=年)で「人種差別撤廃」を提案した。後の国際連盟設立(20=同9=年)に際しても、日本は「人種差別撤廃」の文言を規約前文に入れるよう求めたが、全会一致ではなかったとして拒否された。
そうしたなか、かつては日露戦争後のポーツマス講和条約の仲介を買って出てくれた米国の横やりで、日英同盟は解消に追い込まれてしまう。
米国の提唱した、日本と米国、英国、フランスの四カ国条約の締結(21=同10=年)に実質的に飲み込まれ、02(明治35)年から23(大正12)年まで20年間続いた日英同盟は終焉(しゅうえん)した。日本の国際的地位が揺らぎ始めたのは、それからのことだった。
元駐タイ大使の岡崎久彦氏は、第一次世界大戦後の世界大恐慌後も日英同盟が続いていたら、どうなっていたかを次のように考察した。
《あの当時、中国大陸に最大の利権を持っていたのはイギリスです。そのイギリスとがっちり組んでいれば、日本は中国市場を確保できたでしょう。アメリカはたしかに日本の中国政策には反対だった。しかし、日本がイギリスと利害調整をしていれば、当時のアメリカとしては日英共同の政策には反対できません》(渡部昇一、岡崎久彦著『賢者は歴史に学ぶ』クレスト社)
日英同盟が、いかに日本に重要だったかが分かると思う。