話の肖像画

輪島功一(2)ソ連軍に追われ、樺太から北海道へ

産経ニュース
南樺太の豊原市(現・ユジノサハリンスク)で生まれ、2歳まで過ごした。兄の将彦さん(右)と
南樺太の豊原市(現・ユジノサハリンスク)で生まれ、2歳まで過ごした。兄の将彦さん(右)と

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《昭和18年4月、日本統治時代の南樺太の豊原市(現・ユジノサハリンスク)に生まれ、終戦後、ソ連軍の侵攻直前に北海道に小型船で逃れた》


父、芳太郎は南樺太で材木ビジネスを手掛け、人口増加で住宅建設が急ピッチで進んでいたこともあり、かなり羽振りがよかったようです。母、トヨによると、父は遊びに出るときはいつも千円は持ち歩いていたという。当時、公務員の初任給が70~80円だったらしいので、あの頃の千円は今なら200万円以上になるでしょう。自宅も相当大きかったらしいですが、残念ながら私の記憶には樺太時代のことは一切残っていません。

財産と豊かな生活も、日本の敗戦とソ連軍の侵攻によって、すべて無に帰しました。

20年8月15日の終戦直前から、ソ連軍の南樺太侵攻は北から始まっていたのですが、終戦になっても止まらなかった。早晩、南端部の豊原も攻められるとみた父は、大金を積んで北海道に渡る漁船に母と4歳の兄、そして2歳の私が乗船できるよう、退避の手はずを整えてくれたのです。父だけ残して3人は樺太を脱出。ソ連軍が豊原への爆撃を開始したのはその直後の8月22日でした。

母によると、小型漁船は私たちと同様に、樺太から北海道へ逃れようとする人々で満載で、稚内に着く前に沈没してしまうのではないかと本当に怖かったそうです。


《着の身着のまま稚内にたどり着いた母子3人は、父の実家に身を寄せた》


父は石川県輪島市の生まれで、幼少のころ、漁師に転職した祖父に連れられて、奥尻島と向き合う北海道最西端の漁村、久遠(くどお)村(現・せたな町)に移り住んだそうです。父も当初は漁師を志したらしいですが、船酔いがひどくて断念。新天地を求めて樺太に渡ったのでした。

その久遠村の父の実家には当時、祖母とやはり漁師だった伯父の一家が住んでいました。私たち3人は父が帰ってくるまでの間、伯父の世話になったそうです。


《1年後に父が無事、帰ってくると、一家は名寄盆地のほぼ中央に位置する内陸の町、北海道士別町(現・士別市)に移住した》


私の人生の記憶が始まるのも、3歳で士別に移ったころからです。父は当初、材木商の経験を生かして士別駅近くの木工所に勤務していました。給料もそこそこもらっていたらしいのですが、とにかくおカネはあっても買う食べ物がない時代。このままでは一家4人がそれこそ餓死してしまうというので、自給自足をしようと、父は開拓団に応募したのでした。

割り当てられたのは、市街地から約7キロ離れた「新学田(しんがくでん)」という山の上の土地で、広さは7万平方メートルほどありました。もちろん、電気も水道も道さえもない。冬になれば気温は氷点下30度を下回り、雪も5月まで消えませんでした。

厳しい自然環境下で一家の土との格闘が始まり、兄と私も小さな鍬(くわ)を手に父母を手伝いました。畑ができると、できたそばからイモなどを植えていき、実れば一家ですぐ食べる。文字通りの自給自足生活で、収穫に失敗すれば食べるものがなくなってしまうのだから、幼かった私でさえ危機感を持っていました。コメは高級すぎて、当時はほとんど食べたことがありませんでした。

でもあの頃は、それが苦労だとも思いませんでしたね。父が建てた狭い開拓小屋での家族水入らずの生活は楽しく、やがて6歳下と9歳下の2人の弟もでき、一家は6人になっていました。(聞き手 佐渡勝美)

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