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日本ららばい協会理事長・西舘好子「子供たちは変わっていない」 新刊『「かもじや」のよしこちゃん-忘れられた戦後浅草界隈』が話題

zakzak

明治は遠くなりにけりと、昭和の初めに詠んだのは、俳人の中村草田男(くさたお)だったが、平成、令和と経た今は「昭和」も遠くなりにけり、か。一番輝いていたころの浅草界隈を知る人も少なくなった。

戦前の東京・下町に生まれ、そのころの浅草界隈で育った、日本ららばい協会理事長の西舘好子さんが、『「かもじや」のよしこちゃん―忘れられた戦後浅草界隈』(藤原書店)を上梓した。

父親の東太郎(とうたろう)さんは、明治42(1909)年に神田で生まれた生粋の〝江戸っ子〟。日本髪の「かもじ」(つけ毛や部分かつらのこと)を扱う職人の3代目で、浅草橋の自宅と浅草田原町に仕事場を持っていた。

「『かもじや』といっても今の人たちにはわからないでしょうね。父方代々、下町で続いた家業だったけど、父は自分から『江戸っ子』だなんて言ったことはなかった。きっと、そんなことを口にすること自体、『粋(いき)』じゃない、って思っていたんじゃないかしら」

下町と言えば、お祭り。地元にある鳥越神社のお祭りは、戦後再開され、巨大な千貫神輿(せんがんみこし)が自慢だ。

重い神輿を、何百人も担ぎ手が町内ごとに受け渡してゆく。中には〝くりからもんもん〟を背負ったおニイさんたちも。「神輿ジャック」なる連中が飛び出してきて、奪い合いが始まる。祭りにつきものの大ゲンカは、見物客にとっても楽しみのひとつだった。

「祭りは『大人』を見るよいチャンス。(当時の下町には)面白い大人がたくさんいましたからねぇ。こうしたお祭りもコロナ禍で駄目になってしまった。今後、コロナが収束しても前と同じようにはいかないんじゃないかな、とちょっと心配していますよ」

浅草の隣には、「吉原」の遊郭街が残っていた(昭和33〈58〉年の売春防止法施行で廃止)。ただし、かつて江戸文化の一翼を担った格調や賑わいは失われ、戦後は、パーマ髪に真っ赤な口紅をつけた洋装のおネエさんが街中を闊歩するようになっていたのだけれど…。

「私の小学校にはいろんな家の子供が通っていました。中には『いまウチにコレが来てるんだ』なんて平気で指を立ててみせたりする友だちや花柳界の子供も。でも、そんなことでイジメたりはしません。現代の子供たちに実は〝イジメっ子〟はいない。イジメるよりも『無視』をして、一切の関係を持たないようにするのですから」

昭和15(40)年生まれの西舘さんは戦争の中で幼時を過ごし、母方の郷里である福島県小名浜で疎開生活も経験した。終戦後、東京へ戻り、食料や物資に事欠く毎日の中で、小学校に通い始める。

「でも、私の子供時代は、ずっと楽しかったんですよ。実は、飢えたりした思い出もありません。学校給食にはアメリカから『ララ物資』(パンや牛乳)なるものが来て、先生が『皆さんの食は大丈夫です』と話されたのを覚えています」

日本ららばい協会のこれまでの活動を通じて、子供たちは、たとえどんな悲惨な災害や戦禍、貧困に見舞われようとも、「明るく、元気いっぱい翔(か)けているんだ」という思いを持っている。本書を書いたのも、子供の視線で戦争や終戦後の時代を見たら、「大人とは違って見える」のではないか、と考えたからだ。

「ネット全盛の現代では、人間関係が希薄になったと言われますが、それは『大人の目』がちゃんと子供へ向けられていないから。子供たちは変わっていない。きっと、未来永劫そうですよ」

文・梓勇生/カメラ・寺河内美奈/レイアウト・市川高子

■西舘好子(にしだて・よしこ) 日本ららばい協会理事長。評論家。1940年10月5日、東京市浅草区(当時)で、「かもじや」の2女として生まれる。81歳。高校卒業後、大手広告代理店に勤務。61年、後に人気作家となる井上ひさしさんと結婚(その後、離婚)、3女をもうけた。劇団主宰を経て、日本子守歌協会(現・日本ららばい協会)を創設、理事長として子守歌の伝承やDV(家庭内暴力)、子供への虐待問題などに取り組む。

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