話の肖像画

元ソニーCEO、クオンタムリープ会長・出井伸之(83)(8)CDとの出合い、デジタルの世界へ

産経ニュース
オーディオ事業部長のころ(前列右から3人目が本人)。カセットデッキが売れた時代だった =昭和54年(ソニーグループ提供)
オーディオ事業部長のころ(前列右から3人目が本人)。カセットデッキが売れた時代だった =昭和54年(ソニーグループ提供)

《ソニー・フランス設立の際、合弁の相手をめぐって本社と意見が対立したことが響き、昭和48年に帰国命令が出た》


帰国後、最初の所属先は横浜の物流センターの倉庫で、従業員のほとんどは女性でした。フランス帰りの僕は長髪で、裾の広がったズボンをはいていました。その格好で発売されたばかりのスポーツカー「フェアレディZ」で職場に乗り付けていたので、とても目立っていたと思います。

後に社長になる岩間和夫さんに「大丈夫か」と心配されましたが、「毎日いろんな女性とランチに行って楽しく過ごしてますよ」と冗談を言って落ち込んでいるようにはみえないようにしていました。

夕方で終わる仕事だったので、劇団四季を創設した浅利慶太さんや田辺エージェンシー社長の田邉昭知さん、マルチタレントの加藤タキさん、丸井グループ名誉会長の青井忠雄さんと夜はよく東京・六本木で遊びました。ここで培った人脈やエンターテインメントに関する知見が後の仕事に生きることになります。


《54年、41歳のときに大きな転機が訪れる。文系出身者で初の事業部長となった》


ソニーは理系出身者中心の会社ですが、文系の社員も東大卒や院卒の優秀な人が多くて、「(早大政経卒の)自分はこの中で文系の部署で選ばれるのは難しい」と限界を感じるようになりました。

そこで、理系のポジションだった事業部長になりたいと思い、不況に見舞われていたオーディオ事業部に目をつけて志願しました。「出井に千三つ(1000品出して当たるのは3品くらい)でやらせてみよう」。岩間さんがこう言って、僕を事業部長に推してくれたことを後で知りました。

オーディオ事業部は当時は赤字でしたが、ソニーの中でも伝統のある部署で、100人を超えるぐらいの技術者が働いていました。僕の事業部長就任は彼らにとって大きなショックだったようです。僕がソニーの社長になったときよりもインパクトはあったと思います。事業部長になると個室が与えられるのですが、最初は誰も相談に来てくれる人がいなくて、部内の反発を感じました。

技術者にアンプの聞き比べで試されたこともありました。でも僕はバイオリンを弾いていたし、オーディオ少年だったので、音の違いが分かるんですね。あれこれ意見を言っていたら、だんだんと信頼されるようになりました。

設計図を書く仕事をしていた女性従業員たちにも協力してもらって、徐々に技術者のみなさんと個人的にも親しくなり、一緒にライブコンサートに出かけるようにもなりました。


《不振だったオーディオ事業に救世主が現れる。フィリップス社と共同で開発を進めていたコンパクトディスク(CD)だ》


CDは光学ピックアップ技術で音を出します。CDとの出合いで、僕は最新のデジタル技術について勉強するようになりました。オーディオは技術の塊ですが、技術の世界には常に新しいものが出てくる。

大変なことはいろいろありましたが、一番の問題はコストでした。どうしたら売れる値段で商品を作れるか。オーディオ事業部だけではなく、半導体の部隊の力も借りながら、ソニーを挙げて方法を考えました。57年にCDプレーヤーを発売すると、大阪の家電量販店に売り込みに行きました。そこで偶然、会長の盛田昭夫さんと出くわすのです。(聞き手 米沢文)

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