話の肖像画

謝長廷(20)弁護すべきは「民主化運動」

産経ニュース
1979年12月10日、台湾南部の高雄で民主化を求め、トラック荷台でたいまつを掲げてデモを率いる姚嘉文氏(同氏提供)
1979年12月10日、台湾南部の高雄で民主化を求め、トラック荷台でたいまつを掲げてデモを率いる姚嘉文氏(同氏提供)

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《1979年12月、民主化を求めたデモが鎮圧された「美麗島事件」。逮捕されたデモのリーダー、姚嘉文(よう・かぶん)氏の夫人は夫の代わりに会いに来たのか》


ええ、私が社会運動の弁護を引き受けていると聞かれたのでしょう。訪ねてきた夫人の周清玉さんから、姚氏の弁護を依頼されました。高雄市で起きた「美麗島事件」でリーダーのひとりだった姚氏は弁護士であり、民主化運動の支援もされていました。

民主化を求めて国民党政権を批判したデモで、集会申請が何度も却下されていました。このため、無許可の不法デモが治安部隊との衝突に発展した美麗島事件には「反乱罪」が適用され、軍事裁判が決まっていました。最悪の場合、死刑の重罪です。

国民党に属さない政治活動は当時、「党外」と呼ばれており、急進派から穏健派まで党外にはさまざまな勢力がありました。ただ民主活動家が寄稿していた雑誌「美麗島」を中心に勢力が結集して、国民党の一党独裁や台湾での人権弾圧などに反発を強めていたのです。


《戒厳令の時代だった》


戦後、台湾を支配した蔣介石(しょう・かいせき)率いる国民党政権は、住民を弾圧していました。特務機関の警備総司令部が49年5月に台湾全土に敷いた戒厳令は、87年7月に解除されるまで実に38年も続いたのです。中国共産党の勢力や台湾独立を企てる人物と決めつけて、命を奪いました。

世界で最も長い戒厳令が台湾人を苦しめた史実を、ご存じない日本の方も多いでしょう。

戒厳令で憲法が停止されており、特務機関が政治犯として検挙すれば、一方的な軍事裁判で刑務所に長期間、送り込むこともできました。冤罪(えんざい)のケースが数多くあり、時に戦前、日本の高等教育を受けた台湾人は危険分子として狙われました。


《民主化要求デモで弁護を引き受けるのは危険だった》


美麗島事件が起きた79年はまだ、戒厳令の最中です。重大な政治事件でもあり、家内は大反対でした。私や家族の身にも危険が及ぶのではないかと。

ただ、弁護士としての私の原則があり、姚夫人からの依頼を拒むという選択肢はありませんでした。家内には「法廷で弁護するだけで逮捕されることはない」と説明して、「政治活動には関与しない」と約束しましたが、しばらくして約束は破ることになってしまいました。

私が強く思っていたのは引き受けるのは姚氏個人の弁護ではなく、民主化要求デモそのものの弁護であり、被告は姚氏ではなく、民主化運動だということです。民主化運動が有罪かどうかを問うたのです。


《軍事裁判の判決は》


美麗島事件は国際的にも注目されていました。留置場で接見した姚氏と当たり障りのない会話をして監視している憲兵の目を盗み、海外や台湾での事件への関心や評価などを書いた紙を見せて真意を伝えました。信念の強い姚氏ですが、台湾社会は決して姚氏を見捨てていないと伝えたかったのです。

結局、姚氏は懲役12年の判決を受けました。弁護士側は「反乱などではない。乱判(乱れた裁判)だ」と反発していましたが、有罪は避けられませんでした。幸いだったのは姚氏は87年に仮釈放され、90年5月に総統だった李登輝先生が政治犯の特赦と公民権回復を行ったため、姚氏を含む計34人が自由の身になったことです。

この裁判には陳水扁(ちん・すいへん)元総統や蘇貞昌(そ・ていしょう)行政院長(首相に相当)たちも当時、弁護士として加わっていました。86年9月に台湾初の野党、民進党を結党する契機になった事件でもありました。(聞き手 河崎真澄)

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