《当時は「戒厳令の時代」。家族は心配したのではないか》
漢方医だった父、謝仁寿はこのころすでに亡くなっていましたが、生前はよく「決して政治にかかわるな」と話していました。妻もとても心配していましたが、私は「積極的に民主化運動などの弁護を引き受けることはしないが、(先方から弁護を)依頼されて拒否したら弁護士としては失格。正義を守るのが弁護士の仕事だ」と説き伏せていました。
自由な民主主義社会の日本から戻ったばかりで、当時の厳しい台湾社会の締め付けや政治体制に反発していたのかもしれません。やはり日本での生活の影響は大きかったといえます。
79年12月10日、高雄市で世界人権デーにあわせて言論の自由などを求める無許可デモがあり、警官隊と衝突した参加者が多数逮捕されました。「美麗島事件」と呼ばれ、暴動事件のごとく報じられましたが、私は動向を注視していました。
翌年1月、勤務する台北の弁護士事務所に突然、美麗島事件でデモのリーダーだった姚嘉文(よう・かぶん)氏の夫人、周清玉さんが現れました。来訪に気づいた瞬間、私は「自分のこの先の運命が大きく変わるだろう」と直感しました。亡き父の言いつけを破らざるを得なくなってしまうかもしれないと。(聞き手 河崎真澄)