【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】聖子と違い「完璧主義者」…妥協できないゆえに消えた周囲の助言 いったん身を引くことも不可避に - イザ!

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歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡

聖子と違い「完璧主義者」…妥協できないゆえに消えた周囲の助言 いったん身を引くことも不可避に

若くして完璧主義者だった明菜
若くして完璧主義者だった明菜

 デビューから3年目の中森明菜が目指していたものは、一体何だったのだろうか?

 当時の明菜を知る音楽関係者は、「おそらく」と前提した上で振り返ってくれた。

 「常にファッショナブルでアート的なものを求めていたと思います。思いますと言ったのは、どうしても、その時々では彼女が考えていることは曖昧な見方にしか感じませんでしたから。しかし、後になって明菜本人の意思が形になり出したものを見ていると、なるほど、と思えてくるのです。結局のところ結果論でしかないのですが…」と語る。

 一方で、デビュー当時から明菜の担当ディレクターとして制作現場を仕切ってきた島田雄三との間に、楽曲の選別で確執が生まれていたということについては「外から見ていて、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の雰囲気は、島田さんの企画、制作方針に間違いはなかったといった空気は漂っていましたね。コンセプトはしっかりしていましたから。それが逆に『明菜のワガママ』と捉えられてしまったのかもしれません。ただデビューして3年もたてば両者の間で感性や方向性の違いは出てきて当然でしょうし、いい作品を作りたいという気持ちは共通していましたからね」。

 そんな明菜について、南沙織や郷ひろみ、山口百恵など「昭和のアイドル」を多数、手がけてきた音楽プロデューサーの酒井政利氏(今年7月死去)は生前、「明菜を一言で表現するとしたら『完璧主義者』ということでしょうか。レコーディングでは編集にまで口を挟んだとも言われていましたからね。とにかく妥協を許さなかったと聞きました。そういったこともあって、明菜にあえて助言する人がいなくなってしまったのです。ある意味で不幸なことだったのかもしれません」としながらも、松田聖子との違いも指摘する。

 「明菜と聖子は、まさに1980年代を代表するアイドルでしたが、曲に対するスタンスには大きな違いがあった。明菜と違って、聖子は表面上ではとにかく人当たりがよかったのです。例えば歌詞を自分で書きたいとか、ちょっとしたこだわりは見せるものの、結局は他人に任せる部分があって。もちろんスタッフだけに見せるようなワガママな顔も持っていましたけどね」

 一方、明菜については「作品はもちろん、衣装についても、完璧主義者であるが故に妥協できなかった。しかも完璧さを他人にも求めるため、スタッフは疲れてしまう。本来の明菜というか、素顔の明菜は、食事の場では自分から取り分けるなど人への気遣いができる子でした。それが作品作りになると一変してしまうのです。もちろん聖子も口出しはしますが、表面上は円満に見せるのがうまいのです」。

 そんな明菜に「やっぱり明菜はモンスターだったと思ったことがあった」と言い切るのはワーナーで明菜の担当プロモーターだった田中良明(現在は「沢里裕二」として作家活動)だ。

 「例えば衣装でも、アーストンボラージュなどのルーズフィットなファッションがはやったバブリーな頃は、作品に合わせて、より風変わりな創造的な世界を模索していました。しかも、それだけでは物足りないと思っていたようです。振り返ると、中森明菜という存在は、もはや既成のアイドルの制作感覚ではない、えたいの知れないエネルギーを持っていたと思いますね」

 明菜は島田とことごとくぶつかるようになっていったが、「いろいろ考えたのでしょうね。いったん自ら身を引くことを考えたようです。というより、状況的にも、それ以外ないような状況に陥っていましたね」(田中)。 =敬称略 (芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)

 ■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』で合格し、82年5月1日、シングル『スローモーション』でデビュー。『少女A』『禁区』『北ウイング』『飾りじゃないのよ涙は』『DESIRE-情熱-』などヒット曲多数。NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。

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