【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】過去の“常識”とは比較できない特別さ スタッフも追いつけない感性 - イザ!

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歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡

過去の“常識”とは比較できない特別さ スタッフも追いつけない感性

デビュー当時はまだあどけない感じだったが…
デビュー当時はまだあどけない感じだったが…

 1970年80年代の芸能界は、大手プロダクションと大手レコード会社が協力して、新人アイドルをデビューさせては、年末に賞レースを競うのが、いわば“常識化”していた。

 古参の音楽関係者は「新人アイドルのデビューには巨額の投資をしてきた。発掘から育成、レッスンはもちろん宣伝費も…。デビューだけではなく、その後も新曲やアルバムが発売されるたびに一流ホテルを借り切って記者発表やパーティーを開くのは当たり前でした。金額のかけ方次第で注目度も変わった。今では考えられないですが、ネットのない時代です。限られたメディアの中で1人の新人を育てるのは大変だったのです」。

 その上で「1年目は投資、2年目で勝負をかけ、3年目から利益を上げていくことが理想のパターンでした。しかし中森明菜さんの場合、レコード会社はデビュー前から1億円を超える破格の宣伝費を注ぎ込み、デビュー半年後には利益に変わっていたと思いますね。振り返るとメディアが彼女の人気の高まりというか、勢いに追いついていけなかったように思います」と語る。

 当時の明菜を語る際、芸能関係者の多くが「それまでのパターンと比較はできない」という。所属レコード会社だったワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の邦楽宣伝課で明菜の担当プロモーターだった田中良明(現在は「沢里裕二」として作家活動中)に聞いた。

 「彼女の場合は特別だった気がします。デビュー3年目には、すでにセルフプロモーションができていたほどですから。われわれとしては、発言が不安定になり始めたように感じていたのかもしれません。要するに、われわれのほうが彼女の感覚についていけなくなっていたのです。ところが、当時は制作現場はもちろん、現場のマネジャー、宣伝や営業、そういったスタッフとの間に溝を生み始めていたのです。結局、われわれはどうしても旧世代的なアイドル感を捨てきれずにいたのです。ところが、彼女はどんどん先に進んでいく。楽曲はアーティスティックなもの、衣装もアイドル的な、いわゆるミニスカドレスに疑問を持ち始めていたわけですから…。もともと彼女は論理的に言わないので、どうしても乖離(かいり)してしまった部分があったのだと思いますね」

 明菜のスタンスは明快だった。あるベテラン制作関係者はこうみる。

 「明菜は、一言で言ってしまえば完璧主義者。もちろん、音楽制作には人それぞれ感覚の違いがあるので一概にはいえないが、明菜の場合、レコーディングでは技術スタッフにまで口を挟んでいたそうです。なので『北ウイング』で作曲とアレンジをした林哲司さんが、レコーディングへの立ち会いを希望するも、担当のディレクターが断っていたというエピソードを聞いて『やっぱりね』と思いました。とにかく明菜は、イメージで『こんな風に仕上げたい』とか言い出し、レコーディングではボーカルの上げ下げまで具体的に指示をしていたなんて話もありました。さすがに現場もプロですから、スタッフも面目丸潰れだったはずですよ。『生意気』と思うスタッフもいたはずですし、明菜に助言するスタッフが誰ひとりいなかったとも聞いています。しかし林さんは『北ウイング』の仕上がりを聴いて、最終的には納得したわけですよね。要するに明菜の制作能力は完璧だったわけです」

 これも、それまでのパターンとは比較のできない中森明菜ならではの逸話なのかもしれない-。

  =敬称略 (芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)

 ■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』で合格し、82年5月1日、シングル『スローモーション』でデビュー。『少女A』『禁区』『北ウイング』『飾りじゃないのよ涙は』『DESIRE-情熱-』などヒット曲多数。NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。

zakzak


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