【承久の変と令和】後鳥羽上皇のイメージを変遷 令和に入って新たな動き 学問・スポーツの神として篤く崇敬 - イザ!

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承久の変と令和

後鳥羽上皇のイメージを変遷 令和に入って新たな動き 学問・スポーツの神として篤く崇敬

 戦前における皇室の神聖不可侵のイメージと対置される格好で、戦後は「開かれた皇室」というあり方がメディアによって流布された。しかし、その行き着いた先は、皇室典範第23条に定められた「陛下」「殿下」の敬称が多くのメディアで使用されず、また皇族の婚姻について過熱報道される現状ではないか。

 現在の歴史教科書の用語表記についても、戦争の呼称について議論に上がることが多いが、それ以上に筆者が看過できないものがある。それが承久の変後に「三上皇が『配流』された」という表記である。「配流」とは流罪の刑が執行されることなので、天皇が罪を犯したのだと生徒に教えるも同然であろう。戦前までは「遷幸」、つまり変の結果、あえて御在所を遷しになったという表現であった。

 承久3(1221)年8月、後鳥羽上皇は隠岐(現・島根県隠岐郡)に遷幸し、帰京がかなわぬまま延応元(1239年)年、当地で崩御。行在所(あんざいしょ)であった源福寺の境内に火葬塚が造営され、江戸時代に松江藩主により廟殿が設けられたのち、昭和14(1939)年、隠岐神社(現・同県海士町)が創建される。翌年に紀元二千六百年(=『日本書紀』に記された建国から2600年)を控えての島根県の記念事業の一環でもあった。

 また、後鳥羽上皇の遺言により、水無瀬離宮跡(現・大阪府島本町)に上皇を祀る御影堂が建立され、王政復古(明治維新)の際の神仏分離で水無瀬宮となる。昭和14年に官幣大社水無瀬神宮となり、後鳥羽天皇七百年祭も挙行された。「武家政権による専横に対して、身を挺して正道を守ろうとした天皇」という評価が定着していったのだ。

 しかし、こうした状況も、敗戦により再び逆転し、「武家社会の定着という歴史の流れに無謀にも逆らった天皇」というレッテルを貼られることとなった。

 国文学者で、聖心女子大学教授も務めた目崎徳衛氏(故人)は昭和60(1985)年、隠岐を訪れた際に、「戦後、歴史の学者が後鳥羽院の調査に来られたのは、はじめてです」と言われたことを著書『古人への存問』(東峰書房)で書いている。

 幸いにも、令和に入り新たな動きが起こった。

 後鳥羽院遷幸八百年を期して、隠岐・海士町で、隠岐神社を中心に後鳥羽院顕彰事業が展開されることになった。島根県立古代出雲歴史博物館でも常設展示ミニ企画として「後鳥羽上皇と隠岐」が8月まで開催中である。

 隠岐神社や水無瀬神宮では現在も、多芸多能そして文武両道であったとされる後鳥羽天皇が、学問・スポーツの神として篤く崇敬されている。

 日本国史学会「承久の変800年シンポジウム」が、26日午後2時から、大阪府熊取町の「大阪観光大学」で開かれます。詳しくは、同会公式サイト(http://kokushigaku.com/)参照。

 ■久野潤(くの・じゅん) 歴史学者、大阪観光大学国際交流学部講師。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。政治外交史研究と並行して、全国で戦争経験者や神社の取材・調査を行う。著書に『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『帝国海軍の航跡』(青林堂)など、近著に竹田恒泰との共著『決定版 日本書紀入門-2000年以上続いてきた国家の秘密に迫る』(ビジネス社)。

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