【承久の変と令和】困難の中でも豊かな文化築かれた時代 800年の時を経てコロナ禍の令和を生き抜く“教訓”へ - イザ!

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承久の変と令和

困難の中でも豊かな文化築かれた時代 800年の時を経てコロナ禍の令和を生き抜く“教訓”へ

承久の変を描いた「承久記絵巻」の一場面(京都府京都文化博物館)
承久の変を描いた「承久記絵巻」の一場面(京都府京都文化博物館)

 令和に入っても、皇室の「問題」がくすぶり続けているように見える。建国以来2000年以上続いた皇位の「男系継承」という原則を、“専門家”を称する面々が軽率にも崩そうとしている。原則や先例に従えば何ら問題のないところに「問題」が惹起(じゃっき)されているのである。

 もちろん、こうした国体(=国のかたち)が大きな危機にさらされたことが歴史上何度かあった。平安時代から鎌倉時代へと移る時期も、その一つである。

 いわゆる源平合戦の終盤、三種の神器を擁して平家が支えた第81代、安徳天皇と、源氏が擁立した後白河法皇(第77代)の院宣で即位した第82代、後鳥羽天皇(=安徳天皇の異母弟)が2年近く並立した。

 また、元暦2(1185)年、壇ノ浦の戦いの際、三種の神器のうち宝剣が失われた。ただ、多くの現行歴史教科書は、こうした事象を危機として捉えることはない。日本という国家が、一貫して皇室を中心に営まれてきたことが無視されているからである。

 鎌倉時代が始まるときの天皇、すなわち建久3(1192)年、源頼朝を征夷大将軍に任命したのが後鳥羽天皇ということも、ほとんど教科書では触れられない。

 後鳥羽天皇は建久9(98)年に、第一皇子の第83代、土御門天皇に譲位し、上皇として院政を開始した。その後鳥羽上皇が承久3(1221)年に挙兵した「承久の変」から、本年は800年の節目の年である。

 戦後は、「承久の乱」と呼称されることが多くなった。併せて、多くの教科書に「後鳥羽上皇が引き起こした」といった表現も見られる。上皇が鎌倉幕府に対して反乱を起こしたかのような、倒錯した説明と言わざるを得ない。

 後鳥羽上皇は、和歌をはじめ文化・芸術についても卓越した才能をお示しになった。しかし、その文化は皇族・貴族といった上級身分の者だけが楽しんだものではない。

 東北大学の田中英道名誉教授は、著書『鎌倉文化の思想と芸術』(勉誠出版)で、政情が混乱した当時も、後鳥羽天皇の恩恵あってこそ、大多数の民衆がその苦しみを克服し、今様(流行の和歌)を楽しみ、美術を鑑賞し、祭り・蹴鞠を行っていたと評している。

 困難の中でも豊かな文化を享受していた時代に対し、現在の歴史家たちは自らの思想や理想を土台に「民衆が苦しんだ搾取の時代」と断ずる向きも少なくない。

 コロナ禍という国難のなか、東京五輪の開会式が約1カ月後に迫った。政府と東京都、大会組織委員会は「ワクチン接種」と「万全の感染対策」などを講じて、「安全・安心な五輪実現」を目指している。これに対し、教条的な反体制野党や一部メディアは、いたずらに不安ばかりを煽っているように感じる。

 800年前の承久の変とその時代を然るべく捉えることで、「令和の時代を生き抜く教訓」が生まれるはずである。

 ■久野潤(くの・じゅん) 歴史学者、大阪観光大学国際交流学部講師。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。政治外交史研究と並行して、全国で戦争経験者や神社の取材・調査を行う。著書に『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『帝国海軍の航跡』(青林堂)など、近著に竹田恒泰との共著『決定版 日本書紀入門-2000年以上続いてきた国家の秘密に迫る』(ビジネス社)。

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