橋上秀樹 セパ興亡30年史
1995年の日本シリーズでヤクルトは、イチローを擁するオリックスを4勝1敗で圧倒した。90年代後半はセ・リーグがパ・リーグを上回っていたと言っていい。
あの頃のヤクルト先発陣は石井一久、山部太、川崎憲次郎、テリー・ブロスらが、パに匹敵するスピードボールを持っていた。対するオリックスは第1戦が40歳の佐藤義則さんで、ほかに野田浩司、星野伸之。難攻不落な投手はいなかった。打者もイチローは別格として田口壮、小川博文が目立つ程度。そこまで怖い打線ではなかった。
私はバッテリーミーティングに出ていないが、イチロー対策に時間を割いたと聞いている。野村克也監督がテレビや新聞を利用して「イチローは内角に弱点がある」と言って意識させ、「実際は外を攻めた」と後に明かしているが、私は真相は別のところにあるとみている。
第2戦の第2打席、左腕の石井一久がイチローの肩口に死球をぶつけた。何だかんだで、あれが一番大きかったのではないか。実際にぶつけられると響くし、残像は残る。石井の1球で打撃が崩れたのだと思う。
3連勝で王手をかけ、第4戦は1-1の同点のまま延長11回へ。オリックスの小林宏がオマリーに14球を投じ空振り三振に仕留めた熱戦は有名だが、その際に代走で二塁にいた私はとんだ濡れ衣を着せられた。サイン盗みをするスパイ呼ばわりされてしまったのだ。
試合後にオリックス投手コーチの山田久志さんが「二塁走者が出していたのがわかっていたけど、タイムをかけられなかった」と話し、テレビ中継でもゲストの工藤公康さん(当時ダイエー)が同様の指摘をしたそうだ。
しかし、当時の神宮は照明が暗く、投手が捕手のサインを見づらいと言っていたほど。二塁からは倍の距離があるのだから、しっかり見えるわけがない。しかも、オマリーが際どいファウルを何回も打つので、私はそのたびにスタートを切っていた。自軍のサインも見なければいけないのだから、相手を見ている余裕などなかった。