終戦直後の引き揚げ、なぜ「国民的記憶」にならなかったのか(1/2ページ) - イザ!

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終戦直後の引き揚げ、なぜ「国民的記憶」にならなかったのか

※オピニオンサイト「iRONNA」に掲載された論考です。肩書などは当時のものです。

加藤聖文(国文学研究資料館准教授)

今から75年前、大日本帝国という、現在の日本国よりも広大な支配領域を持つ国家が存在していた。

大日本帝国は台湾、朝鮮半島、大連と旅順を含む遼東半島の先端部(関東州)、サハリン島の南半分(南樺太)、ミクロネシア(南洋群島)を支配していた。さらに満洲国といった傀儡(かいらい)国家を通じて中国東北を実質的に支配し、日中戦争が始まると、中国本土にも蒙古自治邦政府、南京国民政府といった傀儡政権を樹立した。最盛期には東南アジアも占領した。

1945年、大日本帝国は第2次世界大戦に敗れたことによって崩壊する。私たちは昭和天皇が国民に終戦を伝えた玉音放送が流れた8月15日を境に、大日本帝国の時代であった戦前と、日本国の時代となる戦後を切り分け、この年を起点に「戦後何年」といった呼び方をしている。

大日本帝国が崩壊すると、歌謡曲『リンゴの唄』(霧島昇、並木路子)が流れる平和な時代がスタートしたように思われがちだが、ここには大きく見落とされた現実がある。

大日本帝国が支配領域を拡大するにつれて、そこに日本人が渡っていった。国際化社会といわれる現在ではビジネスパーソンなどが海外に移り住み、アジアには約40万人の日本人が居住している。この数は敗戦時の樺太(サハリン)にいた日本人とほぼ同じである。同時期のアジアには、現在の9倍に近い350万人の民間人が居住しており、現在の大阪市の人口、270万人より80万人も多い。

これだけの日本人が敗戦によって「外国」となった地域に残留することになった。彼らが日本へ帰還することは海外引き揚げと呼ばれ、帰還者らは引き揚げ者と呼ばれた。ただし、彼らが平穏無事に帰還できたわけではない。

ポツダム宣言を受諾する際、日本政府は在外出先機関に対して民間人の現地定着方針を指示した。

民間人より先に将兵が帰国

理由は二つある。一つは物理的な理由だ。敗戦時、民間人350万人と、ほぼ同数の日本軍将兵がいた。

合計すると、当時の日本人口の1割にあたる700万人が残留しており、彼らを短期間で帰還させることは輸送能力から見て不可能であった。しかも、日本軍将兵の本国帰還を求めたポツダム宣言に従い、将兵を優先しなければならなかった。

その他にも機雷除去による港湾施設の回復や、住居や食糧の提供など課題は山積していた。そのため3~4年は帰還できず、その間は現地で自活することを求めたのである。

もう一つは、日本政府の国際情勢に対する見通しの甘さだった。日本政府はポツダム宣言を受諾すれば戦争は終わり、海外に残留する民間人や将兵は、連合国が人道的に取り扱ってくれると期待していた。満洲や中国本土では、数年間の自活を可能とするための代償として、旧ソ連軍や国民党に労務提供を持ちかけるほどであった。

しかし、現地定着方針は完全な失敗に終わる。現地の社会情勢が日本政府の予想をはるかに超えるほど悪化したからである。

中国では国民党と共産党との内戦が始まっていた。さらに、大戦最末期に旧ソ連軍が進攻した地域(満洲・北朝鮮・南樺太)は、直接の戦場となったことから社会的混乱が激しくなり、在住日本人の大量難民化にともなって死者が激増した。

戦争とは究極の国家エゴであり、自国の利益を犠牲にしてまで他国を優先することはあり得ない。旧ソ連は独ソ戦で荒廃した国土の復興が第一であって、そのためには占領地にあった工場も個人資産も戦利品として持ち出し、労働力が足りなければ将兵をシベリアへ連行した。中国も復興のために日本人を利用し、できることは何でもさせた。そして、海外引き揚げに最も重要な役割を果たした米国も同じだった。

米国は、数年はかかるとみられていた日本人の帰還を、自国の船舶を使ってわずか1年余りで完了させた。しかし、これは日本への同情が理由ではなく、中国の安定化を図る上で残留する日本人、特に無傷で敗戦を迎えた100万人を超える支那派遣軍が障害となっていたからである。

日本政府の甘い見通しは外れたが、結果的には敗戦から1年余りという予想を超えた早さで大半の日本人が帰還できた。この外れた見通しと結果のギャップが、海外引き揚げの歴史を覆い隠してしまった。

早く帰還できたとしても引き揚げ者にとって、国家の庇護を受けられないまま難民状態に置かれた1年余りは、戦争が終わったとは決して言えない状況であった。

リンゴの唄が「残酷」な理由

引き揚げ者は、崩壊した大日本帝国の清算を一身に引き受けた人々であり、犠牲者は満洲を中心に30万人近くに上った。亡くなった人の数では東京大空襲の8万4千人、広島の原爆の14万人、沖縄戦の民間人9万4千人を大きく上回る。しかも、犠牲者の慰霊は民間有志に限られ、今も遺骨は現地に埋もれたままである。

帝国の遺児となった引き揚げ者が故国にたどり着いたとき、大日本帝国は日本国という国になっていた。作家のなかにし礼が、満洲からの引き揚げ船で聞いた『リンゴの唄』を「残酷」と感じたのは、引き揚げ者と戦後日本の深くて越えがたい意識の断層をよく表している。

短期間で終了した海外引き揚げは、戦後日本の中で、国民的記憶にはならなかった。日本は戦後復興から高度経済成長を経て経済大国化していき、引き揚げ者の存在は顧みられることもなく、海外引き揚げの歴史は忘却されていったのである。

その一方で、10年にわたって長期化したシベリア抑留は、歌謡曲や映画にもなった『岸壁の母』などで広く知られることになる。京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館が事実上のシベリア抑留記念館であることは象徴的である。

敗戦まで「帝国臣民」の一員とされていた朝鮮人や台湾人の存在も忘れてはならない。彼らも大日本帝国の拡大とともに居住範囲が広がり、敗戦によって現地に取り残された。

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