西日本有数の原生林が広がる「芦生(あしう)研究林」(京都府南丹市)が危機にひんしている。豊かな植生の荒廃が進み、生物相の多様性が失われるなどしているのだ。原因は20年ほど前から急激に個体数を増やしたニホンジカによる食害。研究者らが対策に乗り出したが、保護区内への侵入を完全に防ぐことは容易ではなく、研究者とシカの駆け引きが今も続いている。(桑村大)
貴重な研究林
京都府北東部を流れる由良川の源流域に広がる緑豊かな芦生研究林。約4200ヘクタールのうち約半分は人の手が加えられていない原生林として保全されてきた。
研究林には貴重な植物種が数多く確認され、昭和16(1941)年には東大教授で植物分類学者の権威、中井猛之進氏が「植物ヲ學ブモノハ一度ハ京大ノ芦生演習林ヲ見ルベシ」と学術誌に評したほどだ。
しかし、多様性に富んだ研究林は近年、むき出しになった地肌が目立ち、生育する植物にも偏りが見られるようになるなど姿を大きく変えつつある。最大の原因は、ニホンジカによる食害。研究林長の石原正恵准教授(森林生態学)は「多様性の危機を迎えていると言わざるをえない」と指摘するほどだ。
シカの天敵だったニホンオオカミが絶滅し、代わりを担う猟師も高齢化に伴って激減したことなどが個体数の増加を招き、食害被害が顕著に。林内では、シカが好むササやアザミなどの植物が激減した一方、バイケイソウなどシカが食べない植物ばかりが繁殖し、植生の衰退が起きているという。植生の変化は林内の河川の環境や土壌にも影響を与えており、石原准教授は「生態系自体が変わりつつある」と危機感を募らせる。
10年以上にわたって研究林に足を運んでいる植物研究家の福本繁さんも「森の姿が様変わりしている」と現状を説明。「今や本来の植生は研究林内の限られた場所にしか残っていない」とまで言う。
プロジェクト始動も
シカの食害被害から生態系を守ろうと、平成18年には林内の一部を防鹿(ぼうろく)柵で囲んで保護する「芦生生物相保全プロジェクト(ABCプロジェクト)」が始動した。中心となる京都大の高柳敦講師(野生動物保全学)はプロジェクトの趣旨を「シカの影響を検証しながら、芦生の植物種を守るのが目的」と話す。
同年6月、プロジェクトチームは総延長約1・5キロにわたる柵で林内の1つの谷を囲んだ。シカの侵入を防ぐことに成功し、柵内の植生は数年で回復したが、シカも柵の奥の食料にありつこうと柵内に入り込む方法を模索。数年たつとネットが食いちぎられ、柵内への侵入を許してしまった。
研究者とシカの駆け引きは続く。高柳講師は柵の下1メートル部分を二重構造にした新型の柵で対抗するも、シカはネットの隙間などから侵入。完全に防ぐことは容易ではないという。
そうした中、長年の試行錯誤を経て開発したのが、網の下1メートルにステンレスのワイヤを使用し、地面に対して「L字」型となるように設置する「AF(芦生フォレスト)規格」の防鹿柵だ。維持管理や積雪への対処に課題を抱えるが、高柳講師は「高い精度でシカを防ぐことができる」と自信を見せる。
導入後の植生の回復は著しく、柵外とは対照的な芦生本来の自然が復活。AF規格の柵は芦生研究林以外にも、滋賀県の伊吹山など近畿圏の山間部でも導入が進み、成果を挙げているという。
もっとも、柵でシカの食害被害を抑えられているのは、まだ林内のごく一部。継続的にシカを捕獲しながら希少植物を保護するなどの取り組みに務めることが不可欠だ。高柳講師は「自然の状態に目配せをしながら、バランスのとれた生態系を回復しなければならない」と強調した。