理不尽すぎる南雲忠一「愚将論」を徹底論破する

※オピニオンサイト「iRONNA」に掲載された論考です。肩書などは当時のものです。

久野潤(歴史学者、大阪観光大学講師)

かつてわが国には、若いうちから戦争や軍事のことを語るだけでオタク(右翼?)扱いされる時代があった。筆者も小学生時分から大東亜戦史関係の書籍や雑誌を読みあさり、両親を心配させたものである。そして、千早正隆『連合艦隊始末記』や伊藤正徳『連合艦隊の最後』を読んだ久野少年の率直な感想は、「日本海軍ってスゴい!」である。

日米開戦から半年間の快進撃、ミッドウェー海戦で大敗した後の奮戦、そして終戦直前に米重巡洋艦「インディアナポリス」撃沈…。なぜ教科書では順当に敗戦したようにしか書いていないのか不可解に思った。同時に、戦った将兵たちに申し訳ない思いが今でもする。

さて、その中で「日米開戦から半年間の快進撃」と「ミッドウェー海戦後の奮戦」を指揮した提督こそ、南雲忠一中将(戦死後大将)である。昨今大東亜戦争の意義が問い直され、関連ゲームなどの普及で日本海軍が一般にも人気となってきている中でもなお、いわゆる「南雲愚将論」が根強く唱えられている。

まず、南雲中将の経歴を簡単に見てみよう。明治20(1887)年、現在の米沢市に生まれた南雲中将は、藩校の流れをくむ米沢尋常中学校興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)を経て海軍兵学校に入校(第36期)。191人中5番の成績で卒業し、巡洋艦「宗谷」「日進」「新高」「浅間」「初雲」「霧島」「杉」に乗り組み、第四戦隊参謀、第三特務艦隊参謀、「如月」艦長を務めたのち海軍大学校甲種学生(第18期)を次席卒業した。

その後も艦隊勤務としては「樅」艦長、第一水雷戦隊参謀、「嵯峨」「宇治」「那珂」艦長、第十一駆逐隊司令、「高雄」「山城」艦長、第一水雷戦隊司令官、第八戦隊司令官、第三戦隊司令官を歴任し、その間軍令部第二課長、海軍水雷学校校長、海軍大学校校長を務めている。

そして昭和16(1941)年4月、日米開戦を視野に航空戦力の集中運用のため新編された世界史上初の機動部隊である、第一航空艦隊(いわゆる南雲機動部隊)の司令長官となった。

ミッドウェー海戦の後も第三艦隊司令長官として引き続き機動部隊を率い、南太平洋海戦で雪辱を果たしたのち佐世保鎮守府司令長官となって開戦後初めて前線を離れた。次いで呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を務めたのち昭和19年3月に中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパン島に着任し、その陥落に際して同年7月6日に割腹自決を遂げた(享年57)。

南雲中将が第一航空艦隊司令長官として直接指揮をとった空母機動部隊は、開戦後半年間における主要海空戦(真珠湾攻撃・セイロン沖海戦・ミッドウェー海戦)だけでも敵の戦艦4隻・空母3隻・重巡洋艦2隻をはじめ輸送船その他多数を撃沈した。

これだけの戦果を挙げた現場指揮官は、後にも先にも日本に存在しない。西はインド洋、南はオーストラリア(ダーウィン空襲)、東はハワイに至るまで縦横無尽、まさに無敵艦隊であったのである。ミッドウェー敗戦後も第三艦隊(再編された機動部隊)司令長官としてガダルカナル島をめぐる南太平洋海戦で勝利し、この時撃沈したアメリカ空母「ホーネット」は、日本空母の艦載機が撃沈した最後の敵軍艦となった。

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