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「連合赤軍(の内ゲバ)により、仲間がみんな殺されてしまった」「重信房子(受刑者、元日本赤軍リーダー)とは当然、面識はあった」。1986(昭和61)年にインドネシアの日米両大使館に迫撃弾が撃ち込まれた「ジャカルタ事件」の実行犯だったとして、殺人未遂罪などに問われた日本赤軍メンバー、城崎勉(しろさき・つとむ)被告(68)。24、25の両日に行われた被告人質問では「羽田闘争」「大菩薩峠事件」「連合赤軍」といった歴史的用語や、「世界根拠地論」「前段階武装蜂起論」といった左派の思想用語が何度も登場。革命運動の生き字引ともいえる城崎被告と検察側の間では革命運動史も議論され、法廷が歴史教室のようになる一幕もあった。(小野田雄一)
「労働者とともに闘おう」と大学中退
城崎被告が法廷で語ったところによると、昭和22年に富山県で生まれ、貧しい幼少生活を送った。徳島大学工学部に進学したころ、ベトナム戦争に介入した米国が北ベトナムへの爆撃作戦(北爆)を開始した。
「日本が宣戦布告せず行った真珠湾攻撃は間違っていたと学校で教わったが、米国が同じことをした。反米デモに参加しているうちに左派団体からオルグ(勧誘)を受けた。首相佐藤(発言ママ・佐藤栄作元首相)の米国支援目的のベトナム訪問を阻止するために『羽田闘争』に参加した」