元治元(1864)年7月19日、幕府と長州が京都御所の周辺で戦った「蛤御門(はまぐりごもん)の変」は市中を大火災に巻き込んだ。いわゆる「どんどん焼け」である。北東からの風で東本願寺や本能寺を焼くと、火の手は二条城近くの六角獄舎にも迫った。ここで類焼は避けられないとみた京都町奉行の滝川具挙(ともあき)は、まだ刑も定まっていない33人の尊王攘夷派浪士らの斬首を命じるのだった。
獄内は政治犯だらけ
六角獄舎の前身は、平安時代、左京と右京にそれぞれ置かれた左獄(さごく)と右獄(うごく)。すぐに右獄は廃れて左獄だけが残ると豊臣秀吉時代に小川通御池の小川牢屋敷に移り、宝永5(1708)年の大火後、六角通に移転している。
正式名は三条新地牢屋敷で、宝暦4(1754)年には医学者の山脇東洋が死刑囚の遺体を使って、日本初の解剖をしたことでも知られている。
周囲に堀をめぐらせた東西69メートル、南北53メートルにわたる獄舎内は、一般の牢屋のほかキリシタン牢、女牢に分かれていた。ところが、幕末ともなると世情が一変して、牢屋内は政治犯だらけとなる。
幕府が諸外国の圧力に屈して条約を結んだため、これを弱腰とみた朝廷が外国人を国外へ追い払う攘夷の決行を求めると、京都では尊王攘夷派と公武合体による攘夷派などに分裂。
それが対抗心むきだしの切り合いとなったものだから、捕まえてみると、囚人のほとんどは安政の大獄にかかわる政治犯や過激な尊攘派の浪士という具合になったのだ。
そんな中で武力による尊王攘夷路線を主張して力を伸ばしてきた長州藩が、穏健派の公家と結びついた薩摩、会津両藩の画策で京都を追われると、巻き返しを狙って御所・蛤御門付近で幕府軍と衝突する。それが蛤御門の変である。