■電卓戦争を勝ち抜いた技術
〈最近放映されたアニメ「ちびまる子ちゃん」(フジテレビ系)に、世に電卓が出回り始めたころのエピソードを描いた一編があった。初期の電卓は使う人が慣れておらず入力間違いもあり、そろばんで計算し直すということも〉
先行していた英国製の電卓は、大きさが縦45センチ、横37センチもありました。それを手のひらサイズにするという世紀のプロジェクト。昭和40年代には最大で約50社が参入する電卓戦争になりました。私は、シャープの佐伯旭専務(後に社長)から「会社立て直しのため、新規事業を立ち上げたい」と移籍を誘われ、電卓開発をまかされました。英国製の電卓は真空管を使っていましたが、私たちはそれをLSI(大規模集積回路)に置き換えることに成功しました。でも、さらに小型化して軽量化するには表示板にも新しい技術が必要でした。蛍光表示管をやめて液晶技術を使ったらいいかもしれないと、私はアメリカに飛びました。RCAという電機メーカーで時計の表示に液晶が使われていたのです。表示素子を供給してほしいと依頼すると、同社の技術責任者だったバーナード・ボンダーシュミットさんは「やめた方がいい」。時計には使えても電卓には使えないと助言されたのです。
帰国してそう報告したところ、和田富夫さんという技術者が、自分に開発をやらせてほしいと一歩も引きませんでした。そこからが技術陣の腕の見せどころ。課題は、液晶表示素子で迅速な動きを実現すること。駆動方法を直流から交流にするなど工夫を重ねて達成しました。
〈シャープは昭和39年に電卓1号機を発売。さらに小型化した商品などで人気を集めたが、カシオが47年に1万2800円のカシオミニを出し形勢を逆転した。シャープは翌年、液晶ディスプレーを世界で初めて搭載した電卓を発売してシェアを奪い返した〉
八百屋さんなど小売店は当時のシャープの8桁表示でなくても間に合ったんですね。カシオは桁数を6桁、90万円台までの表示にして値段も下げました。敵ながらあっぱれでした。電卓戦争はやがて終焉(しゅうえん)しましたが、液晶技術は日本語ワープロ、電子辞書、パソコン、薄型テレビなどの表示パネルに応用され、大きな果実をもたらしました。
〈電卓1号機の値段は53万円。当時、ほぼ同じ値段でブルーバードの新車が買えた〉
車はあのころより性能が上がって値段も高くなったが、電卓はどうでしょう。53万円の商品が100円まで下がった例は電卓をおいてほかにないでしょう。電子産業は価格競争にさらされ、その中でも魅力ある商品を出さないと生き残れないことも学びました。日本が先生と仰いだRCAは新製品に恵まれず、この業界から消えていきました。(聞き手 大家俊夫)