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元銀行マンと新聞記者が振り返る「イトマン事件」…全容は解明されず、今も残る「バブル恐怖症」

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産経新聞

 田村 ワシントン特派員だった昭和60年に、(日米欧がドル高是正で一致した)プラザ合意があった。また当時、ドルの暴落を恐れた米政府は、(日米金利差の拡大につながる)日銀の利上げを牽制(けんせい)した。日銀は5.0%だった公定歩合(金融機関への融資金利)を段階的に引き下げ、62年2月に2.5%とし、平成元年5月までこの低水準に据え置いた。当時を思い返せば、大蔵省(現財務省)と米連邦準備制度理事会(FRB)が結託して、日銀を押し込めていた印象だ。

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 --こうした中でイトマン事件は発生した。当時のイトマンの融資体制は

 国重 200億円規模を一気に融資できる信じられない体制だった。ぽいっと(お金を)出す印象を受けた。銀行はそこまで出せない。

 大塚 時代背景もある。当時、地価(土地の価格)が下がると思っている人はいなかった。

 --一般にはイトマン事件だが、「イトマン・住銀事件」とも呼ばれた

 田村 (十数年も頭取、会長として君臨し「住銀の天皇」と呼ばれた)磯田一郎さんは「向こう傷を恐れるな」と大号令を発し、拡大路線を突き進んでいた印象だ。ものづくり(メーカー)中心の融資では銀行の収益は伸びないというのが持論だった。そこにイトマン事件が起こる隙間ができたと思う。イトマンは住銀の別動隊として、不動産を中心とした融資を拡大させていた。

写真一覧

  • 「イトマン事件」を振り返る国重惇史氏(右)、大塚将司氏(中央)、田村秀男産経新聞特別記者(三尾郁恵撮影)
  • 住友銀行元取締役の国重惇史氏
  • 元日経新聞記者で作家の大塚将司氏
  • 田村秀男産経新聞特別記者

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