【メディアと社会】「思いと異なる」エッセー発売中止の重み 渡辺武達
2012/01/25 10:31更新
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フィギュアスケートの浅田真央選手が1月12日、初エッセー集『大丈夫、きっと明日はできる』の発売中止を自身のブログで明らかにした。版元のポプラ社による宣伝がすでに開始され、取り次ぎ社経由での予約部数も10万部を超えていた。あの華麗な演技と微笑(ほほえ)みで多くの人びとを魅了し続けるアスリートの著作であるだけに、テレビや新聞も版元や関係者のコメント付きでそれを報じた。
ブログにはこうある。「この本は、私の競技生活を通しての皆さんへのメッセージブックとして1年かけて制作を進めていたものでしたが、本の宣伝、告知について、私の思いと異なるもので進められたところがあり、出版を中止させていただくことになりました。大変申し訳ないですが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。浅田真央」
報道によれば、版元が配布した販促ポスターの「ママ、ほんとうにありがとう」との表現が本人の意にそぐわなかったのが原因だそうだ。著者の意向や表現と版元の編集上の工夫は合致しないことはままある。だが、発売日(2月8日)まで決まっていた出版の突然の中止は異常である。現在の日本メディア、とりわけ印刷メディアの置かれた状況にしぼってこの件について記すことにする。
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記事本文の続き ■著名人の名前争奪戦
浅田選手は家族の支援を得て日々努力し、世界のトップに上り詰めたアスリートである。筆者は30年以上も日本卓球協会の役員をしてきて、世界のトップレベルの選手がその維持のためにそれ以前よりもまして血の滲(にじ)む努力をしていることを知っている。それはテレビ画面で楽しむだけの人たちの想像を超えている。その浅田選手はカナダでの国際大会決勝を前に、母、匡子(きょうこ)さんの病状悪化のため、急遽(きゅうきょ)帰国したが死に目にあえなかった。アスリートが大事な舞台をキャンセルしてまで…その気持ちを他人が推し量ることはむずかしい。
本そのものは1年も前から準備されていた。鍛錬を怠らない浅田選手のアスリートの部分とその結果としての氷上の舞いのイメージが重なれば、それで十分にビジネスとして成立する。だが、1990年代半ばからのインターネットによる販売形式の多様化と活字離れによって紙媒体が致命的な打撃を受け、今ではテレビまでが(1)悲劇(2)奇跡(3)感動-をキーワードとした番組を主体とし、書籍はテレビとのコラボや著者の知名度を利用したものを安全パイとして、著名人の名前借り争奪戦を演じている。
出版業界では10万部のオーダーになれば「ベストセラー」、100万を超えれば「ミリオンセラー」と呼ばれ、芸能人の本では、『窓ぎわのトットちゃん』(黒柳徹子、1981年)が500万部以上、『蒼い時』(山口百恵、1980年)が200万部以上、最近では『ホームレス中学生』(田村裕、2007年)などがミリオンセラーである。筆者も時代を超えて訴える部分を持つそれらの本から多くを教えられた。だが、あふれるタレント本の中には実際に出版されるまで、著者自身が本の内容を知らないという信じられない仕方で制作されるものもある。
■技量以外の側面増幅
浅田選手の場合は、編集者を含め、周囲の関係者に助けられたのは事実だろうが、どこでも真面目で通る彼女は寸暇を惜しみ、競技としてのフィギュアスケートとその修行体験の真髄(しんずい)を世の中に伝えたかった。別の言い方をすれば、本の発行直前に起きた母の死は家族と自分の中で大事にし、それだけは売り物にしたくないという当然の思いを出版業界が踏みにじってしまったということだろう。
巨大メディアが伝えるスポーツを「メディアスポーツ」という。フィギュアスケートを典型として、とりわけテレビで高い視聴率を取る種目のメディア化には選手の性的魅力を強調したジェンダー・バイアス(社会的・文化的性差別あるいは性的偏見)を助長する仕掛けがほどこされる。アスリートの技量とは違う側面、選手本人には現実性の希薄なことが物語化され、増幅される。ヴィジュアル(男性、女性としての魅力)優先、先の冬季五輪のカーリング競技のような「絆」の誇大表現もそこから生まれる。
スポーツの最大の目的は心身の鍛錬であり、その結果としての健康の増進と社会的ルールを順守したコミュニティー作りの基礎練習である。だから、浅田選手がメディアを通した観客への恩返しと考えたエッセーの発売を「思いと異なる」と公表したことの重さをしっかりと受け止めたい。
(同志社大学社会学部教授 渡辺武達(わたなべ・たけさと)/SANKEI EXPRESS)
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