西南戦争を予言した大村益次郎

維新150年

 晩秋の大阪城を訪ねる。大阪城ホールを抜けると、太陽の広場前に「砲兵工●(こうしょう)跡」の碑があった。かつて大砲など大型兵器を製造した東洋一の軍需工場で、今の大阪ビジネスパークもその跡地にできた。大阪空襲で壊滅したが、集約された技術力は戦後の工業都市・大阪の基盤となった。

 落ち葉を踏みしめ青屋門から二の丸へ進む。極楽橋から京橋口方面に目を向けると、そこはかつて陸軍士官学校のルーツ「兵学寮」があったところ。本丸に上がると、中世ヨーロッパの古城を思わせる重厚な建物。今は「ミライザ大阪城」と呼ばれる商業施設も、戦前は陸軍第4師団司令部、さらに明治に遡(さかのぼ)れば大阪鎮台の本営があったという。

 維新後、「大坂」が「大阪」に変わる頃、大阪城も一大軍事基地に変貌しようとしていた。大阪城に近い、国立病院機構大阪医療センター(大阪市中央区、旧国立大阪病院)の敷地に巨大な石碑が立つ。「大村益次郎卿殉難報国之碑」。大阪を拠点に近代軍制を進めた天才軍略家の顕彰碑だ。

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 大村は維新10傑の1人に数えられるが、尊皇攘夷運動とは無縁である。周防国(山口県)の村医の家の生まれで、下級武士ですらなかった。剣術はおろか、馬にも乗れなかったという。

 22歳の時、大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、西洋兵学の研究に没頭した。その後、宇和島藩(愛媛県)や幕府の要請で近代兵学を講義したが、宇和島で軍艦の建造を指導するなど、実践的な学者であり、技術者だった。

 その大村を江戸で見いだしたのが長州の桂小五郎(木戸孝允)である。帰藩した大村は高杉晋作とともに藩の軍制を改革、近代兵器と農兵を主体とする軍体系を確立させる。第2次長州征伐(幕長戦争)では、自ら方面軍の指揮官となり、巧妙な用兵と合理的な戦術で幕軍に連戦連勝、これを撃破したのだった。

 大村が歴史の表舞台に姿を現したのは、江戸開城後、旧幕府軍の残党である彰義隊を1日で鎮圧した上野戦争からだろう。その後も、北越、奥州、箱館と続く戊辰戦争で新政府軍を指揮し、約1年で維新の革命戦争を終結させたのである。

 その功績で新政府の軍政を統括する兵部省の事実上のトップになり、軍制改革に乗り出す。大村の構想は、廃藩後、徴兵制による国民皆兵を基礎に中央軍を創設しようとするもので、その前段階が大阪に兵部省の機能を移し、兵学寮(幹部養成学校)、造兵司(軍需工場)を建設することだった。

 東京でなく、大阪を軍事上の重要拠点にした理由については、大村の周到な計画があったとされる。

 新政府内ではまだ奥州再起論が強かった頃、大村は周囲に「奥羽は10年、20年、頭をもたげない。それよりも九州からいずれ足利尊氏のごとき者が起こる」と断言。すでに薩摩の反乱=西南戦争を予見して九州に近い大阪に拠点を置こうとしたというのである。

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 明治2(1869)年9月4日夕、京都三条木屋町の旅宿で大村は8人の刺客に襲われた。大阪城などの視察を終えての帰りで、前額と腕、右膝などを斬られ、重傷を負った。

 1カ月ほど京都で治療を受けた後、洪庵の次男、緒方惟準(いじゅん)が院長を務める大阪府病院に入院。オランダ人外科医、ボードウィンによって右足の切断手術を受けたが、すでに手遅れで、敗血症のため、11月5日、弟子たちにみとられながら死去した。享年46。

 暗殺事件の実行犯は、軍制の洋式化に反発する元長州藩士ら狂信的な攘夷主義者だった。背景には、武士階級を否定する徴兵制への不満のほか、大村の傲慢な言動に対する怨恨(えんこん)や異例ともいえる栄達への嫉妬-などが複雑に絡みあい、黒幕説も根強く残る。

 維新史に遅れて現れ、駆け抜けるように消えた大村。切断された右足は、遺言により、洪庵夫妻の墓がある龍海寺(大阪市北区同心)に埋葬されている。(今村義明)

 大阪府病院 大阪府知事、後藤象二郎らの建言で政府直轄病院が大阪に建設されることになり、明治2(1869)年3月、「大福寺」(大阪市天王寺区上本町)に仮病院を設置。院長の緒方惟準をはじめ適塾出身の医師が参加し、同年7月に鈴木町代官屋敷跡(中央区法円坂)に移った。その後、名称の変遷、移転を経て現在の大阪大学医学部付属病院となる。代官屋敷跡には戦後、大阪陸軍病院を前身とする国立大阪病院(現大阪医療センター)が移転した。

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