新興の住宅が建ちならぶ和歌山側から、うねうねとまがりくねる山道を登った。「峠谷川」と書かれた鉄橋をわたると、山の鞍部のあたりで小さな集落に行きあたった。紀見峠である。
さらに行くと、峠のいただきあたりに、
「岡潔生誕の地」
という大きな碑が立っていた。碑の横には、岡潔の簡単な経歴などが刻まれていた。生誕地は「和歌山県伊都郡紀見村大字柱本九百二十九番地」とあった。
「生誕の地」が「生まれたところ」を指すのだとしたら、この碑はちょっとおかしい。この地番は、岡潔の祖父母が住んでいた実家の所在地である。
年譜によると、岡潔は明治34(1901)年4月、現在の大阪市中央区に生まれた。日露戦争が勃発し、父親が出征したため、この峠の実家にもどった。
一時、離れたことはあるが、和歌山・粉河中学を卒業し、京都の三高に入学するまでの十数年間をすごした。
紀見峠は標高385メートル、街道をややおりたところの標識には「大阪府」とあり、裏手にまわると「和歌山県」とあった。
峠沿いの道は、もちろん高野街道である。江戸期から明治にかけて、白装束に「同行二人」と書かれた高野詣での参詣者は、河内からこの峠を越えて紀州に入った。紀ノ川をわたり、九度山西側の慈尊院から、町石道(ちょういしみち)と呼ばれる、昼でも薄暗い峻険(しゅんけん)な山道を高野山に向かった。
峠には、旅籠(はたご)が何軒かあった。参詣者の多くは峠にたどりついたとき、一息をつくために泊まった。その中に、「岡屋」という屋号の旅籠があった。
岡潔の実家であり、曽祖父の代まで営業していた。明治33年、奈良方面から和歌山をつなぐ紀和鉄道(現・JR和歌山線)が開通すると、宿泊客は激減した。
幼少時代の岡潔は、参詣者が行きかう街道のにぎわいを、まったく知らなかった。エッセー『春の草』によると、「端から端まで約二丁足らずの小さな集落」と書かれている。
端から端まで歩いてみた。岡潔の碑のあたりから、ふたまたに分かれており、どちらも竹ヤブなどの林にかこまれていた。築地塀のふるい民家や土蔵もあったが、ほとんどがふつうの民家である。
街道からは、ときたま紀州の平野から薄青く延びた深々とした山々ものぞめた。あのはるかかなたに、御大師さまのいる高野山があった。