【産経抄】7月11日

 「家も財産もすべて流された。両親も妻子も失った。嘆き悲しむ者は数を知らず」。現在の群馬県太田市にある青蓮寺(しょうれんじ)の住職が記した『寛保洪水記録』の一節である。

 ▼江戸中期、徳川吉宗の治世だった寛保2(1742)年に関東甲信越地方を襲った大水害の被害を記録したものだ。暴風雨によって、千曲川や利根川、荒川、江戸川で洪水が発生し、100万都市だった江戸は水没した。死者は2万人を超えたといわれ、江戸期最悪の水害の一つに数えられる。

 ▼西日本を中心とした豪雨による死者は、12府県で計150人を超えた。平成で最悪の大水害である。瀬戸内海に浮かぶ小さな島では、小学生の姉妹が家ごと土砂にのみ込まれた。300人の島民にとって、宝物のような存在だった。「なんでこんな場所におるん」。広島県熊野町では、婚姻届け出したばかりの妻の遺体の前で、54歳の男性が泣き崩れた。

 ▼土砂崩れの現場では、今も安否不明者の捜索が続く。豪雨とは打って変わって、被災地は厳しい暑さに見舞われている。避難所では、体調不良を訴える声が上がり始めた。

 ▼幕府は、江戸の町々の名主に船を出させて救助活動を行った。町奉行は料理茶屋の経営者に炊き出しの代行を命じた。もっとも被災者にとって頼りになったのは、むしろ自らも被災した江戸の人々である。「施行(せぎょう)」と呼ばれる寄付金や援助物資が続々と届けられた。食料から衣料や紙まで広範囲にわたる。三井越後屋(三越の前身)は、金100両分の握り飯を配った。(『天、一切ヲ流ス』高崎哲郎著)。

 ▼幕府は、被害が小さかった西日本の大名に「手伝い普請」、つまり被災地の復旧工事を命じた。今回は、東日本が手を差し伸べる番である。

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